臨在感は「因果関係の推察」が生み出す

 山本氏のイタイイタイ病に関する記述から、臨在感を次のように定義します。

「臨在感」=因果関係の推察が、恐れや救済などの感情と結び付いたもの
「臨在感的把握」=ある対象と何らかの感情を結び付けて理解すること

 強調すべきは、臨在感の起点が「人が因果関係を自然に推察すること」にある点です。

 過去、日本でも風土病として、ある川や沼に入ると、病気になったり死亡することがありました。目に見えないサイズの寄生虫や病原虫が生息していたことが原因ですが、因果関係の詳細がわからなくても、「たたり」として村人が恐れることがあったのです。

 プラスの臨在感は、神社寺院に行くと、日本人はすぐに感じることができます。

 参拝という行為が、「良いことが起こるのでは」という期待を私たちに与えます。参拝が、良いことが起こる予測(嬉しい感情)と因果関係の推察として結び付いているのです。

 このように、臨在感は人が因果関係を推察する習性を起点に生まれているのです。

臨在感と臨在感的把握とは

臨在感を笑った福澤諭吉は、何が間違っていたのか?

 物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態、この状態の指摘とそれへの抵抗は、『福翁自伝』にもでてくる(*3)。

『福翁自伝』とは、幕末・明治初期の啓蒙思想家である福澤諭吉の自伝です。ここで、『福翁自伝』から、該当する箇所を一部抜き出してみましょう。

 諭吉が12、13歳の頃。諭吉の兄(三之助)が、何やら紙を床に並べているところを諭吉少年がどたばたと通ったとき。兄が「これ待て!」と弟を強く咎めました。

 何事かと諭吉少年が聞けば、兄は(父が仕える)殿さまである奥平さまの名前が書いてある紙をお前が踏みつけたのだ、と指摘します。兄の三之助は「お名を足で踏むとはどういう心得である」と、弟を厳しく叱ります。

「殿様の頭でも踏んだわけでもないだろう。名前の書いてある紙を踏んだからって構うことはなさそうなものだ」とたいへん不平で(中略)、神様のお名前のあるお札を踏んだらどうだろうと思って、人の見てない所でお札を踏んでみたところが何ともない(*4)。

 さらに、諭吉少年は近所のお稲荷様の社に入っていた石を、秘かに他の石に替え、隣家の屋敷にあった稲荷様の御神体(木の札)も捨て、何が起こるか観察しました。ところが何も起こりません。彼は、自分が石を入れ替えたお稲荷様に、お祭りのときにみんながのぼりを立て、お神酒をささげるのを見て次のように思いました。

 馬鹿め。おれの入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでいるとは面白い(*5)

 山本氏は『福翁自伝』を前提知識として、だからこそ福澤をはじめとした、明治の啓蒙思想家は間違っていたと指摘しています。これは何を意味しているのでしょう。

(注)
*3 『「空気」の研究』 P.33
*4 福澤諭吉/齋藤孝編訳『現代語訳 福翁自伝』(ちくま新書) P.31
*5 『現代語訳 福翁自伝』 P.32