自分だけは賢明だと考える投機家たち

 バブルは繰り返し発生するものだとガルブレイスは言う。なぜなら、バブルの種が資本主義自体に内蔵されており、さらには人間が本質的にそれを求めているからだと。そして、バブルの負の影響から身を守るには、バブルの存在自体を認め、強い警戒心を持つしかないと述べている。

「私はこの小著を警告の書とするよう特に配慮した。頭脳に極度の変調をきたすほどの『陶酔的熱病(ユーフォリア)』は繰り返し起こる現象であり、それにとりつかれた個人、企業、経済界全体を危険にさらすものだ。
 のみならず、本書で述べるとおり、予防の働きをする規制は明らかな形では全く存在しないのであって、個人的、公的な警戒心を強く持つこと以外に予防策はありえないのである。」

「自由企業制の経済において投機のエピソードが繰り返し起こる傾向があることについては異論がないであろう。こうしたエピソード、すなわち、銀行券、証券、不動産、美術品、その他の資産もしくは物品などにかかわる大小の事件は、多年にわたり、何世紀にもまたがって、歴史の一部をなしている。
 しかし、これまで十分に分析されてこなかったのは、これらのエピソードに共通する特徴である。特に、そうした投機が確実に再び起こるということを予兆する事柄、したがってまた、理解と予想に役立つという意味でかなりの実際的価値を持つ事柄については、十分に分析されてこなかった。
 陶酔的熱病(ユーフォリア)が生じると、人々は、価値と富が増えるすばらしさに見ほれ、自分もその流れに加わろうと躍起になり、それが価格をさらに押し上げ、そしてついには破局が来て、暗く苦しい結末となるのであるが、こうした陶酔的熱病が再び起こったときに、規制であるとか、正統的経済学の知識のようなものは、個人や金融機関を守る働きはしない。
 陶酔的熱病の危険から守ってくれるものがあるとすれば、それは、控え目に言っても集団的狂気としか言いようのないものへ突っ走ることに共通する特徴を明瞭に認識することしかない。このような認識があって初めて、投資家は警戒心を持ち、救われるのだ。」

 しかし残念なことに、人々はこうした当然の警戒心さえ忘れて熱狂へと身を投じてしまう。まさに「陶酔的熱病(ユーフォリア)」である。ガルブレイスは投機に参加する人のタイプを次のように分析する。

「投機に参加する人には二つのタイプがある。第一のタイプは、何らか新しい価格上昇の状況が根づいたと信じるようになり、市価は下がることなしに際限なく上昇を続けるであろうと期待する。つまり、市価は新しい状況──収益および価値が引き続き大幅に増大するような新局面──に適応しつつあるのだと考える。
 第二のタイプは、第一のタイプの人よりも、表面上はもっと保守的で、またおおむね少数である。彼らはその時の投機のムードを察知する。あるいは察知したつもりになる。そして上昇気運に便乗する。自分は格別の才を持っているがゆえに、投機が終わる前に手を引くことができる、と確信している。価格上昇が続いている限りは最大限の利益が得られるだろう、来るべき反落の前に手を引けばよい、と考えるのである。」

『バブルの物語』刊行から10年後に発生したITバブルや、つい最近の仮想通貨バブルにおいても、こうした参加者が数多く存在したことだろう。そしてガルブレイスは以下のように続ける。

「こうした投機の状況は、いずれは反落に転じざるをえない。また、その反落が静かで、なだらかに来ることはありえない。反落が起こると、暗い破局となる。なぜなら、投機に参加した第一のタイプの人も第二のタイプの人も、反落に際しては早く逃げ出そうと一斉に動き始めるからである。
 投機の波が窮極的に逆転するきっかけとなるものが何かあるわけであるが、それが何であるかは、常に大いに論議の的とはなるけれど、たいした問題ではない。上昇気流に乗っていた人は、今こそ脱出の時だと決心する。価格上昇が永久に続くと思っていた人は、自分の幻想が突如打ち砕かれたのを見て、売りに出るか、または売ろうと努めることによって、新たに顕示された現実に対処する。そこで崩壊が起こるというわけだ。
 そしてそれゆえに、『投機のエピソードは常に、ささやきによってではなく大音響によって終わる』という一般論が成り立つのであって、これは数世紀にわたる経験に裏付けされている。」

 ガルブレイスのこの恐るべき指摘を、他人事と感じられない人も多いのではなかろうか。

(つづく)