会社員とNPOの二足のわらじ
前例がないなら「自分でつくる」
鈴木 もし私が村木さんの立場だったら、世の中全ての人が敵に見えたぐらいのことだと思うんです。「周りが歪んでいるだけ」なんて、きっと思えない。それなのに村木さんは、無実が証明されて職場に戻られてからも、退職されて様々な活動に関わられてからも、常に「社会をよくしたい」と。なかなか出来ることじゃないと思うんです。
村木 苦しかったときに、一人でも二人でも、味方がいたっていうことが大きかったと思いますね。今は子どもが成人して私は二人の孫のおばあちゃんでもあるんですが、事件当時、家族は夫と子ども二人。家族は、200パーセント信じてくれました。夫は、「僕が痴漢で捕まっても、同じようにみんな信じてくれる?」とかっていう言い方で元気づけてくれて(笑)。味方がいれば、やっぱり耐えられるっていうところもありますね。
――「逆境」を経て、様々な「踏み出し」をされているお二人でもあるんですよね?
村木 厚労省は、退職してもう3年以上経っています。産官学で言うと、「官」の仕事のキャリアが長かったので、これからは「産」と「学」の仕事をしていきたいと思って、今は津田塾大学で教えているのと、それから、いくつかの企業で社外役員をやらせていただています。
鈴木 8ヵ月間休職をして、家族もものすごく巻き込んだ闘病を送ることになりまして。そのときの壮絶な経験を経て、課題意識が生まれました。日本テレビの記者活動の傍らで、がん患者さんやご家族のために何かできないか模索する中で、がん患者さんやご家族が無料で訪れて相談が出来る「マギーズセンター」というのがイギリスにあるのを4年前に見つけた時に、「あ、これこそ闘病中にあったらよかったものだな」と思えて。クラウドファンディングで寄付を集めて、2年半前から運営しているのが「マギーズ東京」という団体です。今、認定NPO法人の共同代表をしています。
――「踏み出し」をするにあたって、ジレンマはありましたか?
鈴木 がんのことで発信活動をしたいと思っても、がんの公表をする時点でいろいろジレンマがありました。会社では最初、「がんになったことなんて、周りに言うな」と言われて。職場に復帰した後は、東日本大震災の取材を担当したり、文科省や国会へ通う日々で、なかなか医療面のことを伝えるポジションにも就けない時期が続きました。
ようやく、「マギーズ東京」をオープンする直前に厚生労働省担当の記者になって、医療の取材も担当するようになって。ただ、「マギーズ」の運営と記者業との両立は大変でした。しかも、マギーズのNPO活動を始めるときも会社に反対されまして。「今まで副業を認めたことはないし、NPO活動をしている社員もいなかった」と。前例がないなら前例を作ろうと思いました。日本テレビは私がいなくても回っていくけれど、センターは、私がいないと立ち上がらないとも思っていたので、「もし両立を認めてもらえないんだったら、どっちかを手放さなきゃ」と、会社を辞める可能性まで含めて人事に率直に伝えました。審議してもらって、最終的には、NPOはボランティアでやるという形で認めてもらって、両立がOKになったんです。それで、活動を続けてこられました。