しかし、「敵意ある見知らぬ者に対して力を持つ」ことが、なぜ「おもてなし」なのかと、ピンと来ない人もいるでしょう。

 ですが、文化人類学的に考えれば、当たり前のことなのです。

「怖がっていませんよ」と
示すためのジェスチャー

 たとえば、一つの村があり、そこでおもてなしが行なわれるとしたら、それはどんなときだと思いますか。

 村に誰か知らない人がやってきたときです。

 知らない人がやってくる。それは村人にとっての脅威です。

 どんな人か、どんな目的でやってきたかわかりません。敵意を持っていないともかぎらない。そんな「得体のしれない人」のおもてなしをするのは、理由があります。

 それは、権力を示すためです。内心の恐怖を悟られないために、「怖がっていませんよ」と示すためのジェスチャーなのです。気前よく家を開放し、見知らぬ人を受け入れて、「自分は力を持っているのだよ」と示そうとします。

 同時に村の中でも、みなが怖がっている人をあえて受け入れることで、「あの人はすごい」と評価してもらえます。それが「高貴である」ことの源泉になっていったわけです。

 国内外の神話でも、神の使いが訪れ、それを歓待する様子が描かれることは少なくありません。畏怖の対象を招き入れてもてなすのは、恐怖を隠し、力を示し、評価を高めて、自分の価値をつくり出す手段なわけです。

 こう考えていくと、「ホスピタリティ」が持つ本来の意味に、なんら違和感がないことがわかります。語源を踏まえて考えるなら、相手に対して親切にすることが、自分の力になるのです。逆に、親切を受けてばかりいれば、力を失うことになります。

 ですから、高貴な人たちは、提供する側であろうとするのです。