「リベラリズム」の意味は、国によって違う
いえ、先生、もうすでにわからなくなってます。今いきなり授業で「さっき説明したように、リベラリズムはリバタリアニズムと違って」と言われても、まったくついていけない自信があります。
「最初の章で用語の定義を説明し、次の章からその用語を駆使して深い説明を始めるというのは、本の書き方として定番であるが、しかし、用語同士が似すぎていると頭に入らず、その状態で先を読み進めるのはただ苦痛なだけである。しかもだ。せめて、その似ている用語がふたつだけであれば、まだ我慢できるが、さっきリベラリズムをリベラルと呼んだように、それぞれにさまざまな言い回しがある」
先生は、黒板に書いたふたつの単語の後ろに、さらにつけ足した。
『リベラリズム、リバタリアニズム、リベラル、リベラリスト、リバタリアン』
うわ、リベとリバがさらに増えたぞ。こんな用語が次々と出てくる入門書なら僕的にはもうお手上げだ。
「しかもだ」
え、まだあるの?
「『リベラリズム』という用語を使ったとき、最低でもそれの意味が、ひとつに固定されていればまだいい。それなら、ある程度時間をかけて用語に慣れていけばなんとかなるだろう」
「しかし、実際には、ヨーロッパとアメリカと日本で、リベラリズムの意味合いはそれぞれで全然違ってしまっており、だから、ある人の本を読んで、『リベラリズムってこういうものなんだ、福祉国家を目指すことなんだ』と理解したつもりになっても、別の人の本を読んだら、その理解とまったく違う、福祉国家の否定が書かれていたりすることがある」
「なぜなら、『リベラリズム』とは、それが『どこの国』の話なのかという文脈によって中身が変わってしまう用語だからだ」
……難易度高っ!
「そういえば、忘れていたが、リベラリズムとひと口に言っても、ニュー・リベラリズム、ソーシャル・リベラリズム、ネオ・リベラリズム、モダン・リベラリズムと色々あるので、それぞれをごっちゃにしないようにして文章を読まなくてはならない」
……戦意喪失。というか、ニューとネオをまぜるな……。
「だから、私はキミたちに自由主義を語るにあたって、これらの用語をすべて捨て去ろうと思う。通常、自由主義を初学者に教える場合、今述べたようなさまざまな種類の自由主義について、それぞれの違いや歴史を淡々と語っていくのがセオリーなのであるが、私は学びの最初に、そこに時間をかけることは間違っていると思っている」
「そうした用語の違いを網羅的に把握するよりも、本質……核心……。自由主義とは結局、何を正しいとする主張なのか? その本質をまずキミたちに伝えるべきだと思うのだ」
そう言って、先生は何やら図のようなものを描き始めた。
「さまざまなリベとリバは置いておこう。さっきの用語はもういっさい忘れ去ってよい。私は、自由主義を知りたい人は次のふたつだけを理解すればよいと考えている」