かつて、このプロセスで成功した唯一の例とも言えるのが、2002年9月の小泉首相訪朝を巡る田中均外務省アジア大洋州局長と、北朝鮮の柳敬国家安全保衛部第1副部長との実務協議だったのではないか。
双方は01年末から30回以上も北京や瀋陽などで実務協議を重ねたとされる。
当時、この交渉に参加した関係者らによれば、日本側はまず、「国防委員会の金チョル」と名乗った柳敬氏が、本当に日朝首脳会談を実現できるほどの実力の持ち主なのかどうかを、何度も検証した。
前任の日本担当者だった朝鮮労働党国際部の黄哲氏が「後任だ」と紹介してきた柳敬氏は、日本政府のファイルにはない人物だった。
柳氏は、浅黒い他の副官と全く異なり、日焼けの跡が全くなかった。
外務省の局長クラスですら義務づけられている農作業支援に駆り出されない特権階級だとみられた。
副官たちは、柳氏がトイレなどで会議場を離れるたびに、慌ててタバコを吸った。北朝鮮市民の数少ない嗜好品であるタバコも吸わない特別な人間だという印象が強まった。
日本側は柳氏の実力を測る狙いで、北朝鮮が当時、抑留していた日本人の解放を求めた。
この要求を、北朝鮮はやすやすと受け入れ、これを機に、日本側は柳氏について「拉致問題の解決を、金正日総書記にアドバイスできる実力者」という判断に一気に傾いた。
次に日本側が取り組んだのは、柳氏に「北朝鮮が拉致問題を認めることが、北朝鮮にとっての利益になる」と理解してもらうことだった。
田中氏は当時、経済協力や安全保障など、多様な切り口から丁寧に柳氏を説得していったという。
果たして、北朝鮮は2002年9月の日朝首脳会談で拉致問題の存在を認めた。
首脳会談後、家族を残して「帰国」した5人を再び北朝鮮に戻すかどうかを巡って、当時の官房副長官で、5人を戻すことに反対した安倍氏と、帰国後、いったんは戻るとの実務協議の合意を尊重しようとした田中氏の間で論争があったのは周知の事実だ。
安倍氏はその後、対立した田中氏を度々批判した。政治家の最大の使命は国民の生命を守ることにある。安倍氏の判断は支持されるべきものだ。
ただ、田中氏は官僚として自分の仕事に忠実だっただけとも言える。安倍氏は当時、日朝秘密接触の過程から外されてもいた。
安倍氏の主張は正しいが、同時に田中氏の立場にも理解を示すべきだった。