番付がかなり落ちても
そこから積み上げるしかない

 公傷制度と似た仕組みに、公欠制度がある。大学などで授業を欠席する際に、学会に出席したり、他の研究会の活動に参加するなど、大学が認めた理由であれば、欠席したという扱いをせずに、出席したものとみなす制度だ。

 この公欠制度、授業に出席したかどうかが履修単位認定に大きく影響する場合や、勤勉さにより成績を付ける授業には必要かもしれない。しかし、大学におけるほとんどの授業は、その知識を得たか否か、その能力を発揮できるようになったかどうかが問われるものだと、私は考える。

 だとすれば、公欠であろうが、大学構内でのけがであろうが、はたまたプライベートでのけがや病気であろうが、その授業に参加していなかったのであれば、その授業で得られるはずの知識は得ておらず、その授業で発揮すべき能力は発揮できていなかったということになる。極論すれば、ぼんやりと授業に参加して、多少の知識や能力を発揮しただけの学生より低いパフォーマンス、つまり、パフォーマンスゼロということになる。

 これに対して、「確かにその授業には参加していなかったが、普段は相当程度の知識や能力を有しているので、パフォーマンスゼロとみなすのはおかしい」という意見に接することがある。私が言いたいのは、その授業で発揮された知識や能力についての事実についてだ。その授業の評価はその授業の範囲で、日常の評価は日常の評価で分別して行わないと、両者が混在して、それぞれの評価を行う意味がなくなる。

 貴景勝は、7月全休の後、大関から陥落する。9月場所で10勝すれば、1場所で大関に返り咲くことができる。けがの回復状況によっては、復帰は11月場所以降になるかもしれない。番付は落ちるところまで落ちるかもしれない。いずれであったとしても、体調が十分に回復してから、正々堂々とパフォーマンスを発揮したという事実を積み上げていけばよい。