その考えは部下にも及んだ。かれの有名な言葉に、「主人は船、部下は水だ」というのがある。これは家康の座右の書『貞観政要』にある「君は船、民は水」(治者がよい政治をおこなっているときは、民衆はこれを支持し、静かに支えてくれる。しかし一旦悪政をおこなえば、船をひっくり返してしまう)の転用だ。それはとりもなおさず、「何よりも民を畏れよ」ということであり、親しいものに対して家康は常に、「部下も同じだ。油断すれば、主人にいつ背くかわからない」と告げている。駿河時代に培われた“人間不信”が“部下不信”に発展していたということだろう。

人質から解放された家康が行った画期的な人事とは

 織田信長が今川義元を桶狭間の合戦で殺すと、家康は解放され、拠点である故郷の岡崎城に戻り信長と同盟を結んだ。そして岡崎城主としてかれが最初におこなった人事は、「岡崎奉行」の設置である。つまり「政治でもっとも畏るべきは民だ」という認識を持った家康は、領民のために奉行を設置したのだ。

 しかし一人の人間に奉行を命じたわけではない。家康は常に、「すべての能力を一人の人間が備えているはずがない。必ず欠点もあるはずだ」という人間観を持っていた。したがって、互いに欠点を補い合うような組み合わせが必要だ、と考えていた。そこで、岡崎奉行には三人の武士を任命した。高力清長・本多重次(通称作左衛門)・天野康景(通称三郎兵衛)である。

 これが布告されると、岡崎の城下町の住民は、こんなことをいった。「ホトケ高力オニ作左どちへんなし(どっちでもない)の天野三郎兵衛」。この例えは、三人の性格をよく見抜いている。ホトケのように人情深い高力、気が短く法律を重んずる本多重次、そのどちらの性格も併せもっている天野康景ということだ。わたしはこの人事を、「歴史上における名人事」だと考えている。家康の「マルチ人間はいない」という人間観のあらわれだけでなく、この人事方針が260年も徳川幕府を続けさせたからである。いってみればこの人事は、「各人の長所の相乗効果を期待する」ということであり、長所の相乗効果とともに、それぞれの欠点を補完させるということでもある。

 この岡崎奉行の事例だけでなく、家康が創始した徳川幕府の幹部職は、すべて単数ではなく複数で任命されている。老中も若年寄も諸奉行も諸目付も、すべて複数だ。しかも「月番」という担当者を設け、毎月一人ずつ仕事をさせる。この間他者は自宅でやり残した仕事や、文書事務に従事する。当然現任の役職者のやっていることを冷静に凝視できる。またそれが民に関係のあることであれば、民側からも批判や称賛の目が向けられる。このことによって全役職者は常に“ドッグレース”をおこなわされていたのだ。

 もちろん現代にこのやり方がそのまま通用するわけではない。しかし、長期低迷した経済や、少子化などによる人口動態の変化で、ともすれば組織内の逆ヒエラルキー(三角形の逆転現象)が見られる現代では、ありあまる幹部職の調整に、この月番制(ポストの複数化)などは一考に値するかもしれない。