「発達障害」はケアされるべきか
先日、ある県の学校の先生と不登校問題について話す機会がありました。その先生がこう断言したのです。「学校の運営がいい方向に向かっているとは思えない。不登校児も増えるばかりだ」と。聞くと、数年前から不登校問題の解決に向け、新たな体制を組んだそうですが、それがちっともうまくいっていない。「担任の先生だけに任せるのではなく、心理士、スクールカウンセラー、ケースワーカーなどの専門家を加えたチームを組んだのです。そうすれば、もっといいケアができるだろう、と。けれどね……」
結局は一人の先生の「私がこの子を立ち直らせるんだ」という熱意に勝るものはないのでしょうか。システマチックに役割分担をはかったことが、逆に責任の所在をあいまいにしてしまった。肝心の不登校児を減らす結果に結びついていないそうなのです。
実は、ずっと感じていることですが、精神医療においても同様のことが起こっています。はっきり実感したのは、数年前のこと。長年、出席していなかった小学校の同窓会に出たのがきっかけでした。同級生と久々に語らいながら、自分の思い込みにハッとさせられたのです。
発達障害という言葉を耳にしたことのある人は多いはず。以前は知られていなかったADHD(多動性障害)やアスペルガー症候群といった発達障害に対する社会の認知度は、ここ十年で格段に高まっている。学校内でも専門家による特別なケアが実施されるようになっています。
しかし、私が子どもの頃は、研究も進んでいなければ、ケアシステムも存在しませんでした。精神科医になりたての頃、発達障害の概念に触れた私はこんなふうに思ったのです。「そうか、授業中に落ち着きがなかったA君は、きっとADHDだったんだな」「コミュニケーションが苦手だったC子ちゃんは、アスペルガー症候群だったに違いない」
けれど、彼らはちょっとした「変わり者」「個性的な子」として、普通の子どもたちと同様に過ごしていました。「今だったら適切なケアが受けられたのに、彼らは不遇な時代を生きてしまったもんだなあ」。勝手にそう思い込んでいたのです。
ところが、同窓会で数十年ぶりにA君、C子ちゃんに会ってビックリしました。予想に反して、彼らは立派な大人になっていたのです。確かに言動には幼少時の「個性」が見え隠れする。けれど、A君は営業マン、C子ちゃんは美容師として、それぞれ活躍している。
私は考え込んでしまいました。彼らが今の時代に小学生として生きていたらどうだっただろう、と。発達障害の子どもとして特別支援学級に入れられていたら? カウンセラーや特別学級の先生から熱心なケアを受けていたら? 数十年後、彼らは今のようになっていたでしょうか。
医学に限らず、様々な分野で最先端の研究が進行しています。ある種の勘や情熱や根性で押し切ってきたことが、よりシステマチックに明文化・制度化されるようになっています。
たとえば、会社の組織も旧来の部署制から合理的なプロジェクト制やチーム制に移行しつつある。そのほうが成果も見えやすく、ムダもないでしょう。けれど、一方で組織の団結力が失われ、制度からこぼれ落ちるような「社内ノマド」が生まれてきているのは以前にも書いた通りです。