なぜ生物多様性を守らなければならないか
それでは、なぜ生物多様性を守らなくてはならないのだろうか。この問いに答えることは、実はそう簡単ではない。
まず、最初に思いつく答えは、ヒトにとって役に立つから、というものだろう。ヒトが生態系から受ける利益を「生態系サービス」というが、その生態系サービスの源泉は生物多様性である。つまり私たちは、生物多様性のおかげで、生態系サービスを受けることができるのだ。
生態系サービスにはいろいろなものがある。生態系は、食べるための魚や家を建てるための木材を、私たちに与えてくれる。これは直接的な生態系サービスの例である。また、きれいな水や空気も、私たちが生きていくために必要なものなので、生態系サービスである。
さらに、芸術家がきれいな景色を見て絵を描いたり、子どもが自然と触れ合うことによって健やかに成長したりするのも生態系サービスに含まれる。
一方、ヒトの役に立たなくても、生物多様性は守らなくてはならないという考えもある。時代によって、ヒトが受ける生態系サービスは変化する。だから、これから先、どんな生態系サービスが重要になるかわからない。
そのため、現在生態系サービスを生み出している生物多様性だけでなく、今は何の役にも立っていない生物多様性も守らなければならないという考えである。もっとも、これも究極的には、ヒトにとって役に立つから、という考えだけれど。
さらにはヒトとは無関係に、地球の生物システムそのものが貴重だから、という考えもある。これは立派な考えで、まったくその通りだといいたくなる。いいたくなるけれど、やはり地球の生物すべてを対等に扱うことは難しい。
私たちが病気になったときに、病原体である細菌の命の尊さを考えたら、病院になんて行けない。もしも抗生物質を薬としてもらったら、そしてそれを飲んだら、細菌が死んでしまう。そんなかわいそうなことはできない。でも、なかなか、そういうわけにもいかないし。
それは極端にしても、たとえば、オオカミを日本に導入するという計画はどうだろうか。
もともと日本にはオオカミがいた。北海道にはエゾオオカミが、本州と四国と九州にはニホンオオカミが生息していた。ともに明治時代には絶滅したが、その後シカやイノシシが増えて、農作物などの被害が問題になっている。
そこで、日本の生態系を昔のように回復させるために、海外からオオカミを連れてきて日本に放すことが、一部で計画されている。しかし、野生のオオカミがいたら、ヒトが襲われる危険性は非常に高い。それでもオオカミを日本に復活させるべきだろうか。
これらの問題には、唯一の正解はないのかもしれない。もしもヒトのことだけを考えて、自然をどんどん破壊していったら、そのうちヒトは地球上で生きていけなくなるだろう。しかし、自然のことだけを考えて、ヒトのことをまったく考えなかったら、病院にも行けないし、オオカミにも食べられてしまうし、それはそれで生きていけないかもしれない。
それらの両極端のあいだで、ヒトはいろいろな意見を持つのだろう。
こういうふうに、いろいろな意見を持つこと自体も、生物多様性だ。すべてのヒトが同じ意見を持つのは危険なことなのだ。それはヒトを含む生態系を危うくさせるから。
(本原稿は『若い読者に贈る美しい生物学講義』からの抜粋です)