ほんとうの<br />伝統産業とはなにか?能作克治(のうさく・かつじ)
株式会社能作 代表取締役社長
1958年、福井県生まれ。大阪芸術大学芸術学部写真学科卒。大手新聞社のカメラマンを経て1984年、能作入社。未知なる鋳物現場で18年働く。2002年、株式会社能作代表取締役社長に就任。世界初の「錫100%」の鋳物製造を開始。2017年、13億円の売上のときに16億円を投資し本社屋を新設。2019年、年間12万人の見学者を記録。社長就任時と比較し、社員15倍、見学者数300倍、売上10倍、8年連続10%成長を、営業部なし、社員教育なしで達成。地域と共存共栄しながら利益を上げ続ける仕組みが話題となり、『カンブリア宮殿』(テレビ東京系)など各種メディアで話題となる。これまで見たことがない世界初の錫100%の「曲がる食器」など、能作ならではの斬新な商品群が、大手百貨店や各界のデザイナーなどからも高く評価される。第1回「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」審査委員会特別賞、第1回「三井ゴールデン匠賞」グランプリ、日本鋳造工学会 第1回Castings of the Yearなどを受賞。2016年、藍綬褒章受章。日本橋三越、パレスホテル東京、松屋銀座、コレド室町テラス、ジェイアール名古屋タカシマヤ、阪急うめだ、大丸心斎橋、大丸神戸、福岡三越、博多阪急、マリエとやま、富山大和などに直営店(2019年9月現在)。1916年創業、従業員160名、国内13・海外3店舗(ニューヨーク、台湾、バンコク)。2019年9月、東京・日本橋に本社を除くと初の路面店(コレド室町テラス店、23坪)がオープン。新社屋は、日本サインデザイン大賞(経済産業大臣賞)、日本インテリアデザイナー協会AWARD大賞、Lighting Design Awards 2019 Workplace Project of the Year(イギリス)、DSA日本空間デザイン賞 銀賞(一般社団法人日本空間デザイン協会)、JCDデザインアワードBEST100(一般社団法人日本商環境デザイン協会)など数々のデザイン賞を受賞。デザイン業界からも注目を集めている。『社員15倍!見学者300倍!踊る町工場』が初の著書。
【能作ホームページ】www.nousaku.co.jp

山本 僕は、それが素敵だと思いますね。

能作 そうですよね。漆のつらいところは、外国の人は使い方がわからない。こういう金箔の器でさえたわしでこすってしまう。それでハゲたと持ってくる。使い方からして教えてあげないといけないから、海外展開は難しいですよね。

山本 でも、漆を使った商品も「芸術品として見てください」という提案だときれいですよね。

能作 アートの世界はありですよね。

山本 逆にいうと、輪島の会頭はそれを100%活かすような提案をしてきた。
 伝統と産業を分けて考えないといけない。そうしないと、地方の伝統産業はどんどん衰退してしまう。過去の栄光にずっとすがっている会社が多すぎる。

能作 そうです。

山本 でも僕らはすがらない(笑)。

能作 もともと過去の栄光なんてなにもないので(笑)。

山本 僕らもない。これからの栄光を求めてやっているから別にいい。守るものなんてないんです。僕らも海外に出て失敗している。中国に細々と事務所だけあるのですが、なかなかうまくいっていない。

能作 ただ、アメリカではうまくいっていますよね。

山本 アメリカの場合は奇跡的だといわれますが、別になんてことはない。僕らが行きたかっただけだから(笑)。

能作 それは楽しそうだったから?

山本 僕も能作さんも、年齢が近いからわかりますよね。僕は子どもの頃から、アメリカに対するコンプレックスがありましたよね。だから、ずっとアメリカでビジネスしたいと思っていました。ただそれだけです。

能作 そうなんですね。

山本 今から二十数年前にアメリカのロサンゼルス、ラスベガス、サンノゼ、シカゴと行ってきたのですが、素敵だったのはサンノゼ。あの広大な土地だからこそ、スケールの大きなことが考えられるんだろうと思いましたね。

能作 サンノゼの魅力ってなんですか?

山本 あの青い空と青い海ですよ。

能作 きれいですよね。生活水準は日本よりはるかに上ですよ。
 僕も大学のとき3ヵ月間だけ、ヒューストンにホームステイしたんです。

山本 テキサスのヒューストン、あたたかいですよね。

能作 テキサスはヒューストンの近くですが、当時は、ガラガラヘビがいた。現地の人から「自転車乗っていても足をおろすなよ」といわれました。極端にデカいアリもいてかまれたら痛い。ゴキブリも化け物みたいなのがいた。

山本 カリフォルニアにはそんなのはいなかったですね(笑)。

能作 土地柄でしょうね。ただ、当時も生活水準は日本よりとんでもない上でした。
 40年近く前でも食洗機は当たり前。ゴミの圧縮機も各家庭についていました。テレビのチャンネル数もかなり多かった。
 僕もずっとアメリカへの憧れがあった。

山本 そうですよね。僕はずっとアメリカに対するコンプレックスがあった。

能作 僕ら1950年代の戦後生まれだから。

山本 僕がアメリカに工場を出したのは、ただの憧れで、緻密な計画なんてなにもない(笑)。

能作 それでうまくいったんですか?

山本 ただアメリカに工場を出したいという気持ちだけだった。
 ほとんどの経営者は、東海岸、デトロイト、シカゴというかもしれない。
 でも、僕は寒いところは大嫌い。
 当時、シカゴはマイナス20度の世界。いくらアメリカがいいといったって、あんな寒いところに行ったら、苦労するのが目に見えている。
 どうせ苦労するんだったら、青い空と青い海ときれいなお姉ちゃんがいるほうがいいと思っただけ(笑)。

能作 確かに(笑)。僕もたくさん直営店を出しましたが、自分の出したいところに出してきた。今度は札幌に出したい。今、相談中ですが。

山本 自分が行きたいところに出すのが当たり前じゃない。好きな場所なら成功ストーリーはいくらでも描けるから。

能作 続きはまた次回お願いします。