「IMF危機」という韓国社会の転換点

 著者が「他人が提示した」ものを欲しがった背景には、何があったのかというと、やっぱり1997年のIMF危機(※)が大きいようだ。

※アジア各国で起きた急激な通貨下落。韓国では企業の倒産が相次ぎ、多くの人が路頭に迷うことになった

 このIMF危機は、さまざまな韓国のフィクションに直接的にも間接的にも登場する。例えば、去年日本でも公開となった『国家が破産する日』は、まさにIMF危機のさ中にいる人々を描いた作品であるし、今年のアカデミー作品賞を獲得した『パラサイト』も、IMF危機に翻弄された結果、父親がフライドチキン屋や台湾カステラ屋を経営し、その結果、最終的には一家四人が無職になった家族の話である。小説『82年生まれ、キム・ジヨン』にも、IMF危機は登場し、主人公家族の人生を翻弄する。

 この『あやうく…』の著者は40代であるから、IMF危機当時には二十歳前後だったのだと思われるが、その頃の韓国では、あるCMをきっかけに「お金持ちになろうフィーバー」が起こったと書いてある。

 IMF危機の痛みを「お金持ち」になろうとして振り払おうとしたという共通の経験が韓国の人にはあるのだろう。そして、それを機にがむしゃらに頑張ったことで、韓流ブームやK-POPブームが起こったり、韓国映画『パラサイト』が、カンヌやアカデミー賞を受賞するということに繋がったとも言えるだろう。

 もっとも、『パラサイト』の受賞には、この本の著者と同じように、「こんなに頑張ってきたけど、それで我々の人生は果たして幸せになったのか」という、やるせなさがテーマになっているのではないかとも思う。それは、現代の韓国社会に(もちろん、日本社会や世界にも)共通する問題点なのだと思われる。

 そんな中、『あやうく…』の著者が見出した答え…というか、実験的な試みが「一生懸命生きない」ということであったわけだが、本の結末に向かって、著者も単にさまざまなものを放棄するだけではなく、残すべき考え方を提案をしている。それは「自分を肯定し、人と比べずに愛する」というのも一つであるし、「期待せずに生きられたら、毎日がラッキーの連続、すべてがサプライズプレゼントのように感じられる」というものでもあった。

 この「期待せずに…」というセリフは、『パラサイト』の主人公、ソン・ガンホ演じるギテクが、洪水で避難所で一夜を過ごすときに息子のギウに言う「計画がなければ失敗することはない」という趣旨の言葉に似ている。

 その意味は額面通りに受け取るだけでは正解とは言えないだろう。ギテクの言葉には、個人が計画なしで生きられる平和で格差のない世の中だったらいいなということや、もうこんな世の中だから計画(一生懸命に生きることも含まれるだろう)などあきらめて生きる方がましだというやけっぱちの気持ち、そして個人は計画をあきらめてもいいが、国家が無計画に胡坐をかいて失敗していないと開き直っては困るという意味まで、さまざまなものが含まれていると思われた。

『あやうく一生懸命生きるところだった』は
自分らしく生き抜くための指針だ

『あやうく…』の著者は、実にのんびりとしていて、ポジティブで、日本や世界の文化にも興味があり、読んでいて暗い気持ちになるような本ではない。だから『パラサイト』に描かれている空気感とはまったく違う印象を持つのだが、彼の「一生懸命生きない」哲学にも、ただ単にあきらめるだけではなく、額面通りではない意味もあると思われる。

 それは、国家や数多くの他者が「これがお手本ですよ」と例示するようなお金持ちになろうと「計画」して頑張っても疲弊するだけで何も得られなかったからこそ、それを放棄することで抗っていこう、という意味もあるのではないか。そこには答えはまだ見えない。だからこそ、これは「実験」なのである。

『あやうく…』の著者は終盤に「夢を捨てろという話は、夢を見るなという話ではない」「期待しない人生を生きるのは不可能かもしれない。より良い人生を望むこと自体、期待していることだから」とも書いている。

 この本の著者も、『パラサイト』にしても、そして実際の「N放世代」の当事者もそうなのかもしれないが、人と競争したり、誰かからみた「幸せ」を得るために頑張ることは「あきらめ」ながらも、自分自身の「希望」を維持するために、どう「あきらめない」部分を持って生きればいいのか、模索しているように思えた。

 そう考えるとこの本は「あやうく(自分のためではなく他者の欲望のために)一生懸命生きるところだった」と言い換えることができるのではないだろうか。

西森路代(にしもり・みちよ)/ライター。1972年生まれ。大学卒業後、地方テレビ局のOLを経て上京。派遣、編集プロダクション、ラジオディレクターを経てフリーランスライターに。アジアのエンターテイメントと女子、人気について主に執筆。著書に「K-POPがアジアを制覇する」(原書房)、共著に「女子会2.0」(NHK出版)がある。