“生まれてはじめて他者と言葉を交わし、見知らぬ場所に足を踏み入れ、恋に落ちる-無数の「はじめて」を経てもなお、わたしたちが世界を知り尽くすことはない。それは、ただ世界が広大だから、というだけでない。常に「おわり」が別の「はじまり」となり、その繰り返しの度に新しい言葉が生まれるからだ。”

 冒頭のパラグラフだ。な、なんや、これは…。正直に言おう。ややこしそうなので、読まないでおこうかと思った。書店で手に取っていたら、ここでさようならしていたはずだ。しかし、まえがきにあたる「はじまりとおわりの時」くらいは読まないと、恵送をうけた義理がある。

『はじまりとおわりの時』と題された序説では、娘の出産に「自らの生の成り立ちを実感する気」がし、「それから現在に至るまで、自分はこの円環的な時間の甘美さに隷属してきたように感じる」といった内容が書かれていく。そして、簡単な自己紹介があり、次のパラグラフで締めくくられる。

“これまでに出会ってきた数多の他者たち-自分のこどもも含めて-と自分自身の生が重なる瞬間、わたしは彼もしくは彼女でありえたかもしれない世界を生きる。
 放っておけば意識からこぼれ落ちてしまう、この儚い縁起の感覚をとらえ、かたちを与えるために、わたし自身を紡いできた「はじまり」と「おわり」のパターンを書き記していくことにしよう。この過程のなかで、読者であるあなた自身の生の軌跡が喚起されるよう、祈りつつ。”

 最後の文章にグッときた。その祈りに応えたい。

 ここまでの引用だけでわかるように、尋常ならざる密度の濃さで迫りくる文章だ。こんなに「賢い」文体の本を読むのは久しぶりである。サクサク読めるわかりやすさではない。しかし、噛みしめながら読むと必ず理解できていくのが不思議だ。読んでいると、脳の回転がすこしぎこちなく、そして、ゆるやかになっていく。文を目で追ってから腹落ちするまでのタイムラグに、意図することなく「自身の生の軌跡」が喚起されていく。まるで魔術のような本だ。

ベトナム人でフランス国籍の父、母は日本人
「完全なる翻訳」が不可能であることを悟る

 ベトナム人の父親は日・越・英・仏・北京・広東・台湾語を話す多言語話者、母親は日本人。「フランス政府に就職できるから」という生活上の理由で父親がフランスに帰化していたので、ドミニク・チェンはフランス国籍である。

 東京で育つが、幼稚園から在日フランス人の学校へ通うバイリンガル。ふたつの言語が密接に脳の、いや、体のなかで絡み合っていきながらの成長。その上、「文学作品の醍醐味を知るよりずっと前から、コンピュータゲームの『文体』を噛みしめていた」。このようにして「覚える言葉の数だけ、アクセスできる感覚が増えて」いったという。