当時のリクルートではよく、「使う」「使われる」という言葉が飛び交っていた(今のことは知らない)。はたで聞くと嫌な言葉のように思われるかもしれない。「世の中には人を使う人、人に使われる人の2種類がある……」などと言う人もいる。もちろん、その場合は使う人が上で、使われる人が下という見解だ。
しかしながら、当時のリクルートにおいてはむしろ「使われてなんぼ」。優秀な人ほど声がかかり、「使われる」という認識だった。たとえ上司であっても、その場において期待された役割をきっちりこなせないなら「使えない」上司という烙印(らくいん)を押される風土であった。
江副さんが「私を使え」と言ったのはこんな意味である。
例えば、重要な商談を抱えている営業担当がいたとしよう。先方の担当役員は案件の中身には賛成なのだが、こちら側のコミットメントレベルを疑っているため、次のプロセスに進めない。ここで社長が相手先に同行して「弊社が全力を尽くします」と一言言いさえすれば、先方の担当役員を説得できる。このような場合に、江副さんは「私を使え」と言っているのである。
そこには、営業担当者の先方顧客の状況に対する十分な情報分析があり、相手を攻略するシナリオがあり、そのシナリオの中に社長が出ていく必然性がある。このようにきちんとした理屈がある場合には、もちろんその商談の重要性や社長のスケジュールの問題は検討されるものの、本当に江副さんは「下っ端」の担当者でも営業同行してくれたのであった。あたかも、演出家がいて、シナリオができていて、社長は演者として振る舞うといった風情である。「僕は何をしたらいいの」と必ず聞いていた。
同じように、新卒採用にもよく立ち会ってくれた。自分が大学生のときに生の江副社長に会った人も相当数いるはずである。しかし、学生を口説くには、大学生のほうがびっくりしてしまって、また江副さんは、会社のことを語り始めると、採用担当者の当初のシナリオがどっかに行ってしまうことが往々にしてあったようで、成功率は低かったような気はするが……。
優秀な人ほど
人に「使われる」のがうまい
思い返してみると、この「使われてナンボ」という価値観は、その後、自分がビジネス人生を送っていくうえで非常に大きな役割を果たしている。一般的には、「できる人ができない人を使う」という構図が普通だ。できる人は、具体的にやることを指示してできない人にやらせる、という意味である。