茶室空間から「逆算」し考えつくされた作品
利休はいったいなぜこのようなものをわざわざプロデュースし、愛玩したのでしょう?
それを考えるために、この茶碗を茶会で使うところを想像してみましょう。
利休が好んだ茶室はとても狭く、たった2畳のものさえあります。入り口は、茶室の下方につけられた小さな木製の引き戸です。腰をかがめ、這いつくばって入ります。
部屋の内部は至って質素。壁は裸のままの土壁です。床の間には一幅の掛け軸が掛けられ、壁には花が活けられています。花が活けられているのは華麗な花瓶……ではなく、利休がナタで切り落としただけの簡素な竹筒です。
分厚い土壁の上方には小窓があり、障子が貼られています。この小窓が、茶室の唯一の光源です。季節や時間、天気によっては、かなり薄暗くなる様子が想像されます。
ここで利休が茶を点てます。あなたの前に、真っ黒な茶碗が差し出されます。従来の茶碗のように「見た目の美しさ」を楽しむことはできません。
《黒楽茶碗》を手にすると、ボコボコとした表面の凹凸とともに、手のひらに茶の温かさが感じられます。口に運ぶと、歪んだ飲み口が唇にあたり、そこからゆっくりと茶が口のなかに流れ込んできます。茶の温かさがじっくりと身体全体に染み込んでいくようです。
おわかりでしょうか?
利休は《黒楽茶碗》から「視覚で愛でることができる要素」をあえて排除し、「視覚」ではなく、「触覚」で楽しむ茶碗をつくろうとしたのではないか――それが私の考えです。
実際のところ、利休本人の言葉は残されていないので、彼がなにを意図してこの茶碗をプロデュースしたのかはわかりません。しかし逆にいえば、《黒楽茶碗》もまた、「作品とのやりとり」を通じて、自由に「自分なりの答え」を持つ余地が残されている作品なのです。
さて、20世紀のアートでは、デュシャンが「美」のイメージとはほど遠い「便器」を作品に仕立て上げることで、「アート=視覚芸術」という常識を壊し、アートを「視覚」から「思考」の領域に移しました。
しかしそれより300年以上前、西洋から遠く離れた日本では、利休が「視覚」で愛でることができる要素をあえて排除した「触覚で味わうアート」をつくり出していたのです。
さて、今回は「アートの『常識』ってどんなもの?」という問いについて考えをめぐらせてきました。
作品の「美」を視覚で愛でることだけが、アート鑑賞のあり方なのだろうか?
「思考」や「触覚」を使って味わう鑑賞があってもいいのではないだろうか?
デュシャンや利休が咲かせた「表現の花」は、アートの常識を揺るがすような根本的な問いを私たちに投げかけています。