しかし、過去を否定することは、自分の足をめがけて弾を撃つことであり、上に向かって唾を吐くということみたいな気がする。

 いいことも悪いことも含めて、それが今の自分をつくっているわけで、それを否定しても始まらない。むしろ、「イヤなものはイヤ」「嫌いなものは嫌い」と言い続けてきたからこそ、今の自分があるとも言えるのだ。僕は僕であり、僕でしかない。過去を否定してもしょうがないし、後悔することに意味はないのだ。

「後悔」ばかりして「反省」しなければ、
失敗は永遠に「失敗」である

 僕は、人生とは実験なのだと思う。

 人は誰もが、初めての人生を生きている。もし、生まれ変わりがあるとしても、前世の記憶はなかなか蘇らない。自分の言動がどのような結果を招くのかわからないまま、行動を起こさなければならない。それが、人間の生きている条件だ。であれば、人生とは実験の連続というほかないではないか。

 つまり、僕には、過去にしたことで自分が失敗だと思ってきたことが数多くあるが、実はそれらは、その後の人生のための大切な実験だったということになる。失敗と思って後悔ばかりして、反省をしなければ失敗は永遠に失敗である。自分を責めないでクールに実験と捉えることによって、はじめて過去から虚心坦懐に学ぼうという気持ちになることができるのだ。成功のきっかけとしての実験となることができるのではないか。

 だから、僕は、自分の今までの人生を後悔していない。

 未来を自分で決めてきた結果なのだから、その結果は素直に受け入れるほかない。大切なのは反省することだ。そのためには、過去の出来事に対して、“why”と問い続けることだと思う。そして、僕には幸か不幸か、“why”と問うべき「実験結果」が山のようにある。たいへん高くついた学習体験ばかりの人生であったと苦笑いするほかない。

 というわけで、僕は編集者の依頼を受けることにした。

 タイトルは『反省記』でよい。もちろん、反省はひとりでするものだし、僕はここ数年、それを続けてきた。しかし、自己完結しているだけでは、反省に甘さが生じるかもしれない。世間様に読んでいただくことを前提にすることによって、より反省の質が高まるのではないかと思う。

 もしかすると、「反省が足りない!」とお叱りを受けるかもしれないが、そのお叱りも反省の材料として、さらに研鑽を続ける所存だ。つまり、僕自身のこれからの人生を実りあるものにするために真剣に反省することが、この本を書こうとした第一の動機だ。

「時代」は変わっても、
人間が演じる「ドラマ」は変わらない

 第二の動機は、僕なりの反省をみなさんと共有することで、僕と同じく「人生という実験」にチャレンジし続けている読者の方々に、ささやかなヒントを見出してもらえるかもしれないことにある。

 僕は、他人様に教訓を垂れるような大それたことはできないし、したくもない。しかし、「人の振り見て、我が振り直せ」という言葉があるように、僕の経験をお見せすることで、何か感じられることもあるかもしれない。反面教師にしていただいても構わない。「自分は、こんなバカなことはしない」と笑う方がいても、文句は言わない。「また、言い訳してる」という人のことが目に浮かぶ。笑ってやってください。それはその人の自由だ。

 数年前、ビル・ゲイツが僕にこう話したことがある。

「頭がシャープなのは、お互いあと10年くらいだから、時間を大切にしなければな」

 あの頭脳明晰なビルも、そんなことを言う歳になったのかと、少し驚いたが、たしかにビルの言うとおりだ。僕に残された時間も決して長くはないだろう。今、しっかりと反省して、残された時間を大切に生きたい。それは、僕の切実な願いだ。

 その意味で、『反省記』は、僕の「過去」を扱うものだが、僕の視線はあくまでも「未来」に向けられている。「過去」を反省し、「真実」を知り、「未来」に活かす。それが真意だ。

 遠く過ぎ去った“古い話”が多いが、パソコン黎明期へのタイムトリップを楽しんでほしい。それに、時代は変わっても、ビジネスの営みは変わらない。舞台は目まぐるしく変わるが、そこで演じられるドラマの本質は変わらないと思うのだ。

 もしも、読者のみなさんが、僕の生きてきた「半世紀」の「反省記」から、わずかでもご自身の「未来」に生かす材料を見出していただくようなことがあれば、僕にとって望外の喜びである。

ビル・ゲイツが認めた「伝説の起業家」西和彦氏が、ついに自らの「失敗」を反省した理由西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo