父は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「よし、行け」と言って、電車代と当座の費用を渡してくれた。9時過ぎには家を出ていた。新神戸駅を10時過ぎに出る新幹線に乗ったので、東京には14時頃に着いた。お茶の水の駿台予備校の玄関脇でスピード写真を撮って申し込み用紙に貼り、必要事項を書き込んで提出した。

 試験は翌日、発表は翌々日だった。

 その間、東大受験の時に泊まったホテルで過ごした。それなりに難しい試験だったが、4月から駿台予備校の東大コースに通うことが決まった。下総中山にある駿台予備校の学生寮に入ることも決めた。寝具など必要なものはすべて、父親が神戸から車で運んでくれた。嬉しかった。ありがたかった。

 結局、「駿台予備校に行く」と自宅を出てから、一度も神戸に帰ることなく、東京での生活が始まった。これ以来、僕の生活の本拠はずっと東京かアメリカだった。つまり、両親との生活は、あの日、朝9時過ぎに家を出た時に終わったのだ。

72時間ぶっ通しで考え続ける「集中力」

 予備校では、取り憑かれたように勉強をした。

 予備校の授業は面白く、寮ではよい仲間に恵まれ、何の不満もなかったが、どんなに勉強をしても不安だった。「このまま東大に受からなかったらどうしよう……」と、寮のグラウンドで、ひとり泣いたこともある。

 その不安によって、僕の精神が研ぎ澄まされていたからだろうか。僕は、長時間集中して、深く考えることができるようになっていた

 普通、集中してひとつのことを考えられるのは、せいぜい3時間くらいのものだろう。しかし、当時の僕は、72時間くらいぶっ通しで考え続けることができるようになっていたのだ。

 1時間考えたら30分休む、ということを繰り返しながら、考えたことを紙に書いていって、ある程度の枚数になったら、その紙を並べ直して二次元に展開する。そういうことを3日間繰り返すのである。そうすると、その時点での、自分なりの答えにたどり着くことができた。

 この頃、よく考えたのは、生きるとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのか、自分はどこから来たのか、自分は何をしようとしているのか、というようなことだった。

 哲学関係の本もよく読んだ。

 特にはまったのは吉本隆明だった。同じ部屋の妹尾君に貸してもらって読んだのが始まり。やがて彼の著作は全部読むことになった。吉本隆明の書いていることは非常にロジカルで、とてもよく理解できたし、共感するところも多かった。思えば、初めて、自分に目覚めた時期だったような気がする。少年から青年へと、顔つきも変わった。僕にとって、人生の大きな転換点だったように思う。

「挫折」が人間を強くする

 しかし、2度目の受験も失敗に終わった。

 最初の受験で東大理一だけに絞ったのは、やはり無謀だったと思った僕は、東大理一のみならず、いくつかの大学を併願した。その結果、ほとんどの大学に合格することができたが、東大理一は落ちた。このとき、僕は19歳。同じ頃、ハーバード大学生だったビル・ゲイツはマイクロソフト社を設立していたわけだ。

 ひどく落胆したが、これ以上浪人はできないから、早稲田大学理工学部に進学することにした。学科は機械工学科を選んだが、特段の意図はなかった。学科志望欄の一番上に機械工学科があったから、ろくに考えもせず、それに丸をつけたのだ。

 当時の僕にとって、東大受験失敗はものすごく大きな挫折だった。

 僕のなかの何かが決定的に壊れてしまうような経験だった。しかし、これがよかったのだと、今は思う。