不朽_鮎川義介
「ダイヤモンド」1956年6月23日号に掲載された鮎川義介(1880年11月6日~1967年2月13日)のインタビューである。第2次世界大戦前に、日立製作所、日産自動車、日本鉱業(現ENEOSホールディングス)、日立造船、日本水産など141社、12万人の従業員を雇用する日産コンツェルンを一代で築き上げた起業家だ。

 本連載でも、『東大卒を隠して見習い工から出発――日産コンツェルン総帥・鮎川義介の生涯(上)』『金持ちは人類全体に悪影響を与える――日産コンツェルン総裁・鮎川義介の生涯(下)』で、本人が語る“一代記”を紹介した。今回のインタビューは、鮎川が晩年に力を入れた中小企業の振興が話題の中心である。

 聞き手は、当時のダイヤモンド社顧問(後に会長)の星野直樹だ。冒頭で鮎川は「あなたとの対談は、女房と対談するみたいで格好がつかないね」と口にしている。そのくらい2人は縁が深い。

 昭和10年代に日本が中国・満州に進出した当時、「2キ3スケ」と呼ばれた5人の重要人物がいた。「2キ」は、関東軍参謀長の「東条英」と、満州国の行政トップに当たる満州国総務長官の「星野直」。「3スケ」は総務庁次長の「岸信」、南満州鉄道(満鉄)総裁の「松岡洋」、そして満洲重工業開発総裁の「鮎川義」である。後に東条が首相となると、星野は内閣書記官長として支え、鮎川も内閣顧問を務めた。

 戦後、2人ともA級戦犯容疑をかけられ、鮎川は巣鴨拘置所に20カ月拘置される。星野は東京裁判で終身刑の判決を受けるも後に釈放され、ダイヤモンド社のほか東京ヒルトンホテルや東京急行電鉄などの経営に携わった。

 さて、戦後のGHQによる財閥解体と公職追放により、日産コンツェルンは鮎川の手中から離れるが、巣鴨での獄中生活で、鮎川はまさに財閥解体後の日本復興策について考えを巡らせていた。財閥解体によって大企業が力を失うと、それに代わって中小企業が日本経済を担うようになるというのが鮎川の見立てだった。中小企業経営者が手を取り合い、団結を図ることで日本経済再建に取り組むべきだと考え、出獄後は中小企業の振興に活動を移す。

 1952年、鮎川は72歳のときに中小企業助成会を設立。今でいうベンチャーキャピタルに当たる中小企業助成銀行を立ち上げ、中小企業に融資や経営指導を行った。翌53年には参議院議員選挙に打って出て当選を果たすと、政治の側から中小企業振興を進めるべく日本中小企業政治連盟を創立して総裁に就く。中小企業団体組織法の制定などに尽力した。しかし、このインタビューの3年後の59年、鮎川は次男が起こした選挙違反事件の責任を取り、志半ばで議員を辞職することになる。

 一方、戦後の日本経済は、鮎川が予想した方向とは少しずつずれていった。朝鮮戦争の勃発により、日本が米国の軍事拠点となり、軍需産業を興す必要性から、大企業主導の経済復興策が採られたからだ。もちろん終戦を挟んだ世代交代で、ソニーやホンダといった戦後ベンチャーも数多く生まれた。しかし、輸出型の産業構造に移行する中で、多くの中小企業は大企業系列、下請けといったかたちで再編成されるという構造がつくられたのも事実だった。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

アウトサイダーを規制し
共倒れを防ぐことが先決

――きょうは改めて、中小企業問題について、あなたの抱負をお聞きしたいと思います。思う存分喋ってください(聞き手はダイヤモンド社顧問・星野直樹)。

1956年6月23日号鮎川義介日産コンツェルン創始者、日本中小企業政治連盟総裁
1956年6月23日号より 拡大画像表示

 あなたとの対談は、女房と対談するみたいで格好がつかないね。

――相手は広く一般国民のつもりで話してください。あなたは今、中小企業団体法といったような新しい法律を、お考えになっておられるようですが、これをきっかけにまず話を進めましょう。

 私にとっては、生まれて初めてこの社会のことをやるわけです。新発明を毎日やっているようなものだ。といって、誰か知恵を付けてくれるかというと、そんな人はない。あっても細かいことを言う人ばかりで、全体を言ってくれる人はない。わが家さえ良ければ、それでザッツ・オールだ。それが当たり前で、おったらおかしなものだ。本物はおらんね。だからやりだしたからには、少しでもいいものが出てきたら、これを善用していかにゃならんと思う。

 だから中小企業に対する、予定の大行軍はやっていくが、これは正攻法でじわりじわりやっていく。だからお話の法律は私の運動にちょいとスピードをかけたというわけです。時々こういう問題で、みんなにアピールすることは、眠気覚ましになってよいと思うが、どうでしょう。