1つの違いは「刺激があるか否か」
松田さんは302号室のすりガラスのドアを解錠し、中を駆けずりまわって電気のスイッチやサーモスタット、レンジと冷蔵庫の英語の説明書の場所を示してくれた。そしてあっという間にいなくなり、私は一人残された。(中略)
ニューヨークの名門芸術大学プラット・インスティテュートでインダストリアル・デザインの修士号を取得。世界的イノベーションファームIDEOのニューヨークオフィスのデザインディレクターを務め、現在はフェロー。8年を投じた研究により「喜び」を生む法則を明らかにした『Joyful 感性を磨く本』は世界20ヵ国で刊行が決まるベストセラーとなった。
Photo by Olivia Rae James
住戸内には、色のない面は一つとしてなく、どの壁や柱も、つやのあるオレンジや紫に塗られていた。あとで知ったのだが、荒川はどの角度から見てもつねに6色以上が目に入るように設計したという。まるですべての楽器を同時に奏でるオーケストラを、視覚的に表現したような住戸である。
そして床だ。突風に吹かれてあちこちが盛り上がった砂丘や、表面全体に細かな硬いぶつぶつがある巨人の鳥肌を想像してほしい。歩くというよりは這い進み、動くたびにバランスを取り直さなくてはならない。
住戸内を動きまわり、つま先をあちこちにぶつけるうちに、ふだんの生活でいかに平らな表面があたりまえになっているかを思い知らされた。
だがバランス感覚を少々失ったり、圧倒されたように感じるのは当然のことで、それには大きな目的があるのだとパンフレットには書かれていた。
私はただ集合住宅で一晩過ごしているだけではなかった。自分の体に「死なないための方法」を教え込んでいたのだ。
現代建築の「安楽さ」が死を早めている
この言い回しは突飛に思えるかもしれないが、その背後には、より地に足の着いた考えがある。荒川とギンズは、現代建築の退屈な安楽のせいで、人間の体が無感覚に陥り、それが死を早めていると考えていた。平らな床や白い壁は、感覚と筋肉を鈍らせ衰えさせる。
この問題に立ち向かうために、彼らは「天命反転」という挑発的な思想を提唱した。身体がつねに鍛えられる、刺激に満ちた環境に暮らすことで老化を防ぎ、死を食い止めることができるというのだ。
私は日々の暮らしで身体を意識することがほとんどなくなっていることに、改めて気がついた。本を読みふけりながらニューヨークの地下鉄を乗り継ぐことさえある。私たちは、何も考えずに自動操縦モードで動ける世界を設計してしまったかのようだ。
コーヒーショップからiPhoneに至るまで、「簡単」と「快適」は現代生活のほぼすべてのデザインの2大目的になっている。それはよいことだとずっと思ってきたが、突然確信が持てなくなった。(中略)