致命的な誤解。リベラルアーツとは「教養を広げること」ではありません

これからビジネスパーソンに求められる能力として、注目を集めている「知覚」──。その力を高めるための「科学的な理論」と「具体的なトレーニング方法」を解説した画期的な一冊が刊行された。メトロポリタン美術館、ボストン美術館で活躍し、イェール・ハーバード大で学んだ神田房枝氏による最新刊『知覚力を磨く──絵画を観察するように世界を見る技法』だ。発売から1週間を待たずして大増刷が決定するなど大きな反響を呼んでいる同書から、一部を抜粋・編集して紹介する。

リベラルアーツとは「幅広い教養の習得」ではない

 前回までは、レオナルド・ダ・ヴィンチがいかにして自らの「知覚力」を磨き、それを圧倒的な業績へと結実させてきたかについてお話ししてきました。今回はそれと関連して、「リベラルアーツ」に関する誤解を解いておきたいと思います。

※参考記事
本当に優秀な人たちに共通する「見えないものを観る力」の秘密
https://diamond.jp/articles/-/251551

 ダ・ヴィンチは「リベラルアーツ的な知識人」の代表格として語られることがよくありますが、このとき世間では、リベラルアーツの核心が「教養を広げること」にあるかのように理解されています。しかし実際のところ、これは明らかに本質から外れたリベラルアーツ観だと言わざるを得ません。

 一般向けの書籍や雑誌だけでなく、日本を含む世界の多くの大学サイトなどでも、「幅広くいろんな知識を学んで、それを融合させること」がリベラルアーツ教育だと誤解されています。このことに私はずっと違和感を覚えていました。

 リベラルアーツの原型は、古代ギリシャのプラトン(紀元前427~347)が推奨した教育に遡ります。そこからかなり時代が下った紀元前1世紀に、共和制ローマ期の政治家・法律家・哲学者だったマルクス・トゥッリウス・キケロ(紀元前106~43)が、これに「自由諸学芸(artes liberales)」という名称を与えました。420年、これを「自由7科」として体系化したのが、著述家のマルティアヌス・ミンネウス・フェリクス・カペッラ(生没年不明)です。

 この自由7科は、基礎的な学芸として重視される「文法学」「論理学」「修辞学」を含んだ3学(trivium)と、「算術」「幾何学」「音楽」「天文学」から成る4科(quadrivium)とに分かれます。

 このあたりまではご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、肝心なのはここからです。とくに広く見落とされているのが、リベラルアーツ教育においては「3学」こそが基盤であり、すべての学習のための究極的スキルとされていたことです。この点が軽視されているのは、3学のうちの1つである「文法学」が、その名称から「単なる言語の習得」だと勘違いされてしまうからではないかと思います。

 しかし、なぜ文法学が3学に組み込まれているのでしょう? じつのところ、ここに重要なポイントが隠されています。まず、ここでの文法学は、私たちが学校で習う無味乾燥なお勉強のイメージからはかけ離れています。単に文法ルールの暗記科目などではなく、まさに知覚力の向上を目的にした言語学習だったのです。

 そもそも、古代ギリシャ、ルネッサンスから20世紀半ばまで、リベラルアーツの文法学で教えられてきた古代ギリシャ語・ラテン語は、日本語や英語とは異なる総合的言語です。これらの言語においては、文中の単語の数・性別・関係性・機能などの情報が、何百パターンという特別な語尾変化によって表されます。学生たちが文法学で取り組んでいた課題は、いわば徹底したパターン認識トレーニングでした。単語の語尾の微妙な違いを几帳面に区別・分類しながら、入り組んだ文章のネットワークのなかでパターンを発見し、マッチさせることを学習したのです。

 文法学に習熟するにつれて、学生たちは同時に、あるシステム内の各要素を観察しながら、それをより大きな部分集合に位置づける力を身につけていきます。たとえばリベラルアーツ4科に含まれる算術・幾何学・音楽・天文学などの知識も、あるルールに従って関連づけられる要素の部分集合から成り立っています。

 文法学は、言語学習でありながら、その実質は、情報に溢れたコンテクスト内で、「部分」をじっくりと観察したうえで、それを「全体」へと関連づける能力を育てることを兼ねていました。端的に言えば、リベラルアーツにおける文法学は「知覚力を向上させる基礎科目」だったのです。

 ここで、AIによる機械学習(マシン・ラーニング)との関係で、近年ますます脚光を浴びているパターン認識力の重要性についても、ひと言触れておきたいと思います。

 機械学習とは、AIが認知・分析・推測を行えるよう、数学的あるいは物理的パターンに基づいて一定の情報を学ばせることです。よりわかりやすく表現するなら、人間の頭脳に備わったパターン認識の仕組みを再現しようとする試みだとも言えるでしょう。

 ふだんはあまり意識されないものの、人間のパターン認識のポテンシャルは底知れません。たとえば、ある情報を観察しているときに、私たちの脳は、既知のパターンを呼び出したり、ほかのパターンと比較したり、新たなパターンを思いついたり、2つのパターンを組み合わせたり、パターンから脱出する方法を画策したりといったことができます。また同時に、そうやって知覚されたパターンは、さらに思考を活性化させる引き金ともなります。

 ジョンズ・ホプキンス大学メディカルスクール脳科学学部教授のマーク・パトソンによれば、パターン認識の力を洗練させてきたからこそ、人間の大脳皮質(とくに前頭前皮質)はその他の動物種にはない圧倒的な発達を遂げたのだといいます。つまり、パターン認識力は、人間の叡智の根源だと言っても過言ではないのです。

 なお、3学のうちの残りの2つについては、現代とさほど意味の違いはありません。「修辞学」では相手と考えを共有する際の戦術や伝え方を学びます。とくに説得力・影響力・プレゼン力を重視したコミュニケーションが中心でした。「論理学」のほうはご想像のとおりで、真実を知るためにいかに考えるかというクリティカル・シンキングや分析的思考のための手順やルールが教えられています。

 人間の知的生産は「知覚・思考・実行」という3つのステージから成り立っていますが、リベラルアーツの基盤である3学は、この3ステージに見事に対応しています。本来のリベラルアーツは、知覚を起点とした知的生産のためにデザインされたトレーニングなのです。

致命的な誤解。リベラルアーツとは「教養を広げること」ではありません

 これを踏まえると、「リベラルアーツ=教養を広げること」という理解が、いかに歪んだものであるかはご理解いただけるでしょう。

 ダ・ヴィンチはフォーマルな学校教育は受けていませんでしたが、それだけにかえって、こうしたルネッサンスの教育トレンドに敏感でした。当時ヨーロッパで再発見されたプラトン哲学に心酔していた彼は、プラトンの『国家』に書かれたリベラルアーツの原型(これは理想的な哲人王になるための教育的基礎でした)も独学していたはずです。そのうえ、ラテン語辞書の編纂にまで乗り出し、文法学も極めていたわけですから、やはりダ・ヴィンチは「(本来的な意味での)リベラルアーツ的知識人」であることに変わりはないでしょう。