他者に対する信頼感は、日本は世界一ではないか

国籍という枠組みの、<br />外で生きていきたい<br />【(『続・悩む力』)姜尚中×ジョン・キム】(後編)

 おっしゃる通りですね。本来は、日本はこれほどまでの社会を作ったんだ、と一人ひとりにある種の達成感が伝播していけば、ものすごくいいのになぁ、と思うわけです。ところが、伝播しているのは、無力感のほうでしょう。自分たちが作り上げているものを変えられないという無力感というものが、強烈に伝染している。しかも、それがひとつの空気を作り上げている。

 変えるといっても、いろんな方向の変え方があるわけですよね。いったんは過去も認め、いろんな時代も共有して、世代を超えて手に手を取って、その上でもっといい方向に変えたいんだ、というやり方があっていい。それが、DNAのように世代を超えて継承されていけば、まったく違った空気になっていくと思うんです。

 今は団塊の世代が、「俺たちはこんなにやったのに、お前たちは何だ」と平気で上から目線で言うでしょう。そのくせ、実は最も無力感にさいなまれているのは、その世代だったりする。しかも彼らは、企業の中にうまくおさまって、しっかり安定した居場所を持っていたりする。

必要なのは、DNAであり、変えられるという自信です。韓国は大きく社会を変えて、もちろん徒労感もあったと思う。でも、自分たちで人為は変えられるということを理解できたことは大きいですね。DNAは消えてなくなってしまったわけではない、と確認ができたことも含めて。

キム変えられる、というのは、自分がそれに対して責任を持つ、ということと同じだと思うんです。

 まさにそうです。そこが大事なところです。これは韓国も似ていると思うんですが、ある種、後見人にひれ伏す、とでも言うのかな、多くの人が、自分にはできないから、できる人にやってもらう、という姿勢が強すぎるんだと思うんです。しかも、後見人にはしっかりやっておいてもらわないと困る、と考えている。自分自身は手を出さずに、責任も取らずに、逃れようとしてしまっているわけです。これではまるで、お預け民主主義でしょう。

 アメリカの場合を見てみると、自分たちがやらなきゃどうするか、という感覚ですよね。むしろ、政府なんて関係ない、という意識がある。自分たちがちゃんと武器も持ってやるべきだ、社会は全部、自分で自分の責任を負わないといけない、と考えている。結果として、ダメなヤツはダメなんだ、という厳しい理屈がまかり通ってしまうわけですが。

 逆に日本は、やっぱり後見人にお任せしたほうがいいんじゃないの、となる。政治家だったり、官僚だったり、専門家だったり。そして今は、それがどうもうまくいかなくなってきている。

キム いろいろな国で暮らしてみて、例えば社会の空気の中に含まれている他者に対する信頼感は、日本は世界一じゃないかと思うんです。ところが、それを目の前でぶつけたりすると、日本の人は恥ずかしがってしまったりするんですよね。こんなにいい国なのに、国の現状や未来についても、とても悲観的な人が多い。

 逆に、アメリカ社会は、ある意味で不信に基づいた社会です。相手が信頼できないから、契約もしっかりするし、法律もしっかり決める。問題が発生したら、司法の力で事後的に解決をする。不信に基づき、不信を基盤としたメカニズムでできあがっていると思うんです。ところが、日本はそうではない。

 信頼というのは、これからの時代において、僕は最も大きな武器になるし、繁栄の土台になってくると思うんです。その基盤は、失われていない。でも、この信頼というものの使い方やアピールの仕方は、実のところ日本はあまりうまくないですね。日本国内でも共有されていないし、外にも発信されていない。

 ただ、東日本大震災によって、少し変わりました。社会の中で、みんなの心の中からにじみ出るような信頼感を、みんなが受けているところがあります。法律とか、そういうものではなく、規範というか、コミュニティの中で生まれる暗黙の了解や、そういう形で信頼感への認識が少しずつ出てきている気がします。

 そういうものが、うまくソーシャルメディアなどを通じて、プラスの方向で出てくる兆しも感じています。だから、日本の社会が今後に希望が持てる、ということには、先生に大いに共感します。他者に対する信頼感や未来への希望、自分自身への期待を自覚する人々が増えたとき、日本は少しずつ変わっていくのではないかと思っています。