「無関心」でいられるのがうらやましい

 夫がフェミニズムに無関心でいられるのがうらやましかった。

 関心がないというのは、自分の人生にフェミニズムが必要ないということだからだ。女性に問題を提起されて自分なりには考えても、エネルギーを使って他人を説得してまで、日常を改善する必要性は感じない。

 でも、私にはフェミニズムが必要だった。

 自分がフェミニストなのかどうかは重要じゃない。

 ただ私は、自分が女性、妻、嫁などにあてがわれる枠を超えて、自分自身として生きていくためには、世の中の女性の扱い方が変わらなくてはダメだと思った。

 指に小さなとげが刺さっただけでも、そのことに気づいた瞬間、とげの存在が気になって、指を触ってばかりいるようになる。

 以前はあたりまえのように思っていたことが、女性を抑圧していると気づいてからは、世の中が押しつけてくる限界を黙って受け入れることはできなくなった。

 もちろん、子どものころから少しずつ体にしみ込むように植えつけられてきた固定観念や偏見から自由になるのは簡単なことではない。

 まったく関係のない世界を生きている夫には、なおさら縁のないことだろう。

 1+1が2になるのと同じくらい当然のことを、いちいち説明しなくてはならず、一生懸命説明しても納得してもらえないことも多かった。

 私が話を切り出せば、当然深く共感してわかってくれるだろうと思っていた夫が、守りの姿勢や否定的な反応を示すたび、戸惑い、落胆したりもした。

 それでも、私が「女性」だという理由だけでぶちあたる壁について、少しずつでもいいから理解してほしかった。知らなかったことに、知らずに生きてきても問題がなかったことに、気づいてほしかった。

 人と人が出会うということは、二つの世界が重なり合うことだという。

 私たちは世の中のすべての人を理解することはできないけれど、少なくとも自分が愛する人がどんな世界を生きているのか、知ろうと努力することは大切だ。

 私のことを特別で大げさだと感じる夫の立場を、私も理解しようとつとめた。

 私とは相反する立場だとしても、夫の世の中の見方や韓国で男性として生きてきたことについて、その立場に立って考えてみようとした。

 夫の考え方は彼の内面や家族、社会、世界がすべて入り混じった結果なのだ。愛するということは、非難するよりまず、相手の隠れた内面を理解することだ。

(本原稿は『フェミニストってわけじゃないけど、どこか感じる違和感について──言葉にならないモヤモヤを1つ1つ「全部」整理してみた』からの抜粋です)