イギリスの画策

 一七七五年から一七八三年までのアメリカ独立革命における敗北でイギリスの財政は苦しくなり、自国の保有する銀が不足し始める。清との貿易に用いる銀の不足に悩んだイギリスは、東インド会社がインドのベンガル地方でのケシ栽培の独占権を持っていたことから、アヘンを清に密輸することを画策する。

 インドからのイギリスの収入のうち、二〇パーセントがアへンになったのである。「大英帝国を支えたのはアヘンであった」という言葉があるが、これはあながち大げさな表現とはいえないだろう。

 清は、アヘン貿易禁止令を出した。多くの清の官僚が賄賂をもらってアヘン売買を黙認したために、アヘン吸引の習慣が急速に広まる。一八三〇年代の半ばには、吸引者数は二〇〇万人を超えた。

 一八三一年以降、アヘン購入のために大量の清の銀が海外に流出することになる。銀価は二倍に上昇した。そのため、税を銀で納めなくてはならない農民の生活破綻が一挙に進行した。

 そこで清は、アヘン厳禁派の官僚林則徐を広州に派遣し、一四二五トンのアヘンを没収・焼却し、アヘン貿易の厳禁を言い渡した。反発したイギリスは、一八四〇年、アへン戦争を開始する。軍艦一六隻をふくむ四十数隻の遠征軍を中国に派遣したイギリス軍は厦門・寧波などを攻略し、一八四二年には上海・鎮江を落とし、南京に迫った。

 ついに、清は降伏して南京条約に調印する。条約の内容は、上海などの五港の開港、戦争費用および没収したアヘンの代金六〇〇万ドルの補償、香港のイギリスへの割譲と清にとっては、大変に厳しいものとなった。

 戦後も清のアヘン輸入は増え続ける。相次ぐ銀価格の上昇で民衆生活はさらに悪化し、一八五一年、洪秀全を指導者とする太平天国の乱が起こった。反乱軍は一時、清の南半分を支配するほどの猛威を振るった。清の正規軍「八旗」は反乱を鎮圧できず、曾国藩や李鴻章などの漢人官僚が組織した義勇軍(郷勇)が、一八六四年にようやく太平天国を鎮定した。

 この乱で清が分裂すると、イギリスはフランスを誘ってアロー戦争(第二次アヘン戦争)を起こし、利権の拡大を目指す。また、世界規模の自由貿易実現を目指して一八六〇年に北京条約を結ぶと、イギリスを先頭とするヨーロッパの自由貿易圏に清帝国を組み込むことに成功した。

(※本原稿は『世界史は化学でできている』からの抜粋です)

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左巻健男(さまき・たけお)

東京大学非常勤講師
元法政大学生命科学部環境応用化学科教授
『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。