好き嫌い、不安、不満、怒り、欲、嫉妬、妬み、意地、見栄など、仏教ではこうした感情をひっくるめて「苦」と呼んでいます。「苦」は決して自分の外側からやってくるものではなく、自分の内側で創られるもの。その実態を理解したとき、苦しみを握りしめているのは、他でもない自分自身だと気づくはずです。あとはその苦しみを手放すだけなのですが、これがなかなか手放せないものなのです。

自分にはなりたいものはなかった。
けれど、僧侶にだけはなりたくなかった

 かく言う私も、強烈な欲や、自分勝手な思い込みによって、迷い苦しんできた者の一人です。

 私は愛知県小牧市にある540年続く禅寺、福厳寺(ふくごんじ)の弟子として、育ちました。はじめて経本(きょうほん)を持たされたのは3歳、葬儀に連れていかれたのは5歳でした。厳しい師匠、堅苦しい伝統やしきたりに反発して育ち、高校に入ると、進路について随分悩みました。

 将来を見据えたとき、自分にはなりたいものがない。けれどもどうしてもなりたくないものがある、それが僧侶でした。「僧侶にならずにすむためには、自立しなければならない」。そう考えて海外へ飛び出したり、複数の会社を興したりしました。

 事業において、1億円近い借金の返済が滞り、どうしたら良いかわからずに眠れぬ日々を過ごしたこともありました。

 人間関係において、離れてほしい者が離れず、離したくない者が離れていく苦悩も味わいました。

 自分の向かう先が見えず、またそんなときには、誰に教えを請えば良いのかがわからず、ただ青い鳥を探して海外諸国を放浪した時期もありました。

 救急車で運ばれたことも一度や二度ではありません。「もういい」「もう終わりにしたい」「いっそのこと死んで楽になろう」と思ったことも、珍しくありません。

 けれども不思議なもので、そんなときにいつも向かった先は、お寺の本堂でした。本堂にひとりこもって、声をあげて泣きました。きっと幼少期から師匠に言われていた言葉が脳裏に焼き付いていたからでしょう。