つまり河川の氾濫によって形成された平野であることがほとんどです。このような場所は大雨のさいに水が溜まりやすく、地下水位が浅いことから地震によって液状化が発生することがあります。

東京の歴史は、荒川の治水の歴史

 東京東部を流れる荒川などは、「荒ぶる川」という名の通り、基本的には洪水などの被害が多い暴れ川です。1590年に徳川家康が関東八ヵ国を領有することになったとき、当時の関東平野は広大な荒れ地でした。

 東京の歴史は荒川の治水の歴史といっても過言ではありません。明治時代に洪水が頻発する荒川から、東京の下町を守るために放水路建設が計画されました。きっかけは死者369名、被災者150万人を出した「明治43年大水害」でした。関東大震災による工事の遅れがありましたが、1930年に「荒川放水路」が完成します。工事を指揮したのは土木技術者の青山士(あおやま・あきら)さんです。

 彼はパナマ運河の建設工事にも携わった人物として有名です。こうして荒川放水路が完成してからおよそ90年が経過しました。

市町村合併の功罪とは?

 先人たちが遺してくれた「教訓」は、市町村合併や土地の区画整理などによって、新しい地名へと生まれ変わってしまうことがあります。その土地の特徴を持つ地名がなくなると、地域住民の「防災」という意識が希薄になるかもしれません。

 例えば、埼玉県草加市の北部は、かつて「新田村」といういう水田が広がる村落でした。「田」という地名から、大雨のさいに洪水によって冠水する可能性が高いことが分かります。

 実際に、地理院地図などで見てみると、所々に「自然堤防」が見られますが、ほとんどが「氾濫平野」となっています。1955年の合併によって新田村は草加町(当時)の一部となりました。

 現在のような「草加」ではこうした自然環境をイメージすることは困難です。かろうじて、東武伊勢崎線の「新田駅」という地名に名残が見られ、駅周辺は標高5m未満の土地が広がることから、地理や地学を学んだ人ならば「ひょっとして?」と思うかもしれません。

 このように地名というのは、その土地がもつ特徴を表すものであり、かつてそこで暮らした先人たちが遺した教訓でもあります。そして我々もまた、後世にその教訓を残す必要があります。目先の損得で安易に地名を変更することに警鐘を鳴らさなければなりません。「地名」は我々に、「命を繋ぐために大切なこと」を教えてくれるのです。