初代忠兵衛の死と
二代目の当主就任
伊藤本店をはじめとする各店の業容が拡大していったのは、明治期以降の人口の増加(1868年の明治維新時3330万人、1945年の敗戦時7199万人)、そして洋服という繊維産業にとっての新マーケットの登場にあった。
需要は年を追うごとに増えていくのだから、勤勉に働いていれば伊藤本店に限らず、繊維商のビジネスは伸びていったのである。
1903年、日露戦争が始まる前年、初代忠兵衛は肝臓がんで急死する。61歳だった。跡継ぎは次男の精一、後に二代目忠兵衛と名乗る。精一が継いだのは長男、万治郎が生後、すぐに亡くなっていたためで、精一は幼いころから後継ぎとして育てられた。
父親が急死した時、精一は17歳で滋賀県立商業学校に在学中の身だった。彼は東京高商(現、一橋大学)に進学を考えていたので、受験勉強に打ち込んでいたのだが、当主を継がなくてはいけないので、進学はあきらめた。翌1904年、日露戦争の年に伊藤本店に入社する。
二代忠兵衛は後に「ビジネスに入るのに役に立ったひとつは実習旅行だった」と語っている。
実習旅行とは滋賀県立商業学校の行事で、二代忠兵衛は3人の同級生と一緒に行商をする旅に出た。
同商業は「近江商人を育てる実業学校」で、数年に一度、実習旅行を行っていた。二代忠兵衛は滋賀から愛知県岡崎までの行商の旅に出たが、同級生のなかには遠く韓国、上海、満州まで出かけていった者もいた。
父親が15歳の時に持ち下りに出たことが頭にあったから、彼は勇んで出かけて行ったものの、伊藤本店から仕入れた麻布や雑貨類はなかなか売れなかった。
荷車を同級生4人で引き、時には汽車移動のため、荷車の車輪を外して抱え、荷物と一緒に車両に乗りこんだ。二代忠兵衛たちだけではなく、当時の行商で長距離を移動する場合にはそんな様子だったのだろう。
彼は思い出を語っている。
「労働の体験よりも人文の相違と、相当、貧困な郷国の生活よりもさらに低い地帯のあることに関心を持った」(『伊藤忠兵衛翁回想録』)
故郷の滋賀県の生活も決して豊かではなかったけれど、それよりも愛知・岡崎の方がさらに貧しく、また言葉もなかなか通じないという体験をしている。
明治時代の日本は農業中心の経済で、また、江戸時代に藩で区分された生活が残っていたのだろう。現在よりも方言でしゃべる人間が多かっただろうから、他の地方へ行くとコミュニケーションが難しかった。そして、コミュニケーションが取れなければ商売にならない。当然、商品は売れなかった。
ともあれ、二代忠兵衛は行商の実習で、ビジネスもさることながら日本各地の事情や人気(じんき)に触れた。
明治時代の末期、どこへ行ってもまだ和服を着た人たちが暮らしていた。それを見た二代忠兵衛が繊維業にとってビジネスチャンスだと思ったか、もしくは何も感じなかったか。それはわからない。