「経営者の意志」が見えない会社は
投資の対象にならなくなる
楠木 株主と握るのではなく、総会前に株主に見せる通信簿を整えることに目的が移ってしまう経営者がいますが、これでは二流経営者です。そういう人は、配当性向はこうでないといけない、利益はこうでないといけない、ESGの項目10個のうち全部に取り組んでいますといったように、見かけを良くすることが目的になってしまっている。これは、株主との握りからずれてしまっています。
企業の経営の意志は、株主との握りの中に強く現れるものだと思っています。例えば、今、成長局面ではないので、配当を半分にします。その分、労働分配率を増やします。うちの会社は今、みなで盛り上がらなければいけないところなので、ここは一体感を高めるために気前よく従業員にお金を出します。そのほうが、今動かそうとしているこの戦略にドライブが掛かって、長期的に見たときに儲かるんですよという握り方もあり得るわけですよね。
中神 あり得ますね。ものすごくあり得ますね。
楠木 経営者が表明する意志は1つです。多様な尺度の束として考えないほうがいいと思うんですよね。
中神 本日、リスクやコストをかけて障壁をつくりましょうという話をしましたが、その裏には、経営者のイディオシンクラティック・ビジョン(事業仮説)があります。今日は時間がなくてお話しできませんでしたが、これは本で一番書きたかった章なんです。
元の英語は今まで聞いたことがありませんでした。ビジョンという言葉は聞いたことがありましたが、「イディオシンクラティック」とは何かというと、「属人的」「固有の」「独自の」「独特の」という意味です。ビジョンというものは、みなで寄ってたかってきれいなものを作るのではなくて、先ほど楠木先生がおっしゃられたとおり、「うちはこういうふうにするんだ」というように、経営者固有の意志が現れるものです。
そのイディオシンクラティック・ビジョンこそ、投資家と経営者の握りの根本です。それによって「よし、それに乗った」「いや、それには乗れない」と、投資家が握れるかどうか判断できます。
楠木先生がおっしゃったとおり、「うちは労働分配率をとにかく上げるので、それによって世界から最高の人材を集め、リテンションする。なぜかというと、うちのビジネスは、この後に絶対に人材獲得競争になることがわかっている。だから、うちの会社はそれを先行して実行する」という話であれば、僕ら投資家にとってはとてもおもしろい。乗れるかどうかはまだわかりませんが、少なくともおもしろいと思える。
おもしろいと思った後で、分析して乗るかどうかという判断になる。おもしろくもないことは、ちっとも投資の対象にはなりません。イディオシンクラティックではない経営者は、投資対象にもならないというのが長期投資家の考えです。