「恥」という名の心のハードル

 大会には地元紙が取材に来ていた。「かつてのチャンピオン」であり、「今日の敗者」であり、「2位」でもある僕のところにも記者がやってきた。インタビューを受けながら、こんな言葉が口から出た。
「今回は体調がよくなかった……」
 自分を冷静に客観視できるほど大人ではなかったけれど、自分が思ってもいないことを言っていることは知っていた。「ウソつけ」と頭の中で言っていた。言い訳を口にする自分。それを眺めているもう一人の自分が明らかに嫌悪感を抱いている。その日の体調は、間違いなくよかったのだから。

 勝ち続けていた自分が負けてしまい、「恥」という感覚が強く自分を取り巻いた。
 恥ずかしさが自分に目隠しをし、次に悔しさがやってきて、最後にやるせない気持ちになった。誰にでも恥の歴史というものがあるとしたら、このときが人生で初めて強く「恥ずかしさ」を感じた瞬間だと思う。

日本人に貼りついている「恥」の感覚

  恥を知れ、自らを恥じるなど、日本人である私たちは恥を重んじて生きている。
 相撲の行司が腰に挿している刀のように、間違いは恥であるという文化だ(行司は軍配を間違えたときに切腹するために刀を持っている)。
 この刷り込みは強くて、間違うこと、失敗することに過度に反応したり、それ自体を「恥」として避けて生きている人は多い。一家の恥。顔に泥を塗るもしかり。
 恥の感覚は日本人に貼りついている。