オリンピックと万博のはざまにある今
求められる未来の描き方
『SF思考』で筆者らは「SFの妄想力をもっとビジネスに生かそう!」と提案した。ありがたいことに本書の出版後、SF作家からもビジネスパーソンからも好意的な反応をたくさん頂いた。一方、一部のSFファンからは「SFにビジネスを持ち込むな」という声も頂いた。創作は創作として大事にしたい、という気持ちもあるのかもしれない。よく分かる。しかし、これまで見てきたように、日本のSFは小松左京という原点からして、政治やビジネスという生臭い現実の申し子だった。そして、だからこそ「あり得る未来像」として迫力を持ったのだ。
SFにビジネスを接続することは牽強付会でも何でもなく、むしろ「原点回帰」だと筆者は思う。ビジネスがSFを見下し、SFがビジネスを嫌う。こんな不毛な対立はさっさと解消し、両者を再結合することが、今求められているのではないか。
エッセイ「ニッポン・七〇年代前夜」(1971年)には、64年の東京オリンピックの狂騒を横目で見つつ、万博について小松が考え始めたときに感じた疑問が書かれている。
われわれの社会の「未来」は、いったい誰が、どんな具合にきめているのだろう? 十年先に、その変貌の結果をひきうけさせられるのは、われわれだが、その未来が、われわれにとって「いいもの」だということを、いったい誰がきめてくれるのだろう?
戦後の復興から高度成長へ。東京オリンピックと大阪万博という巨大イベントが象徴する変化の時代に、小松は精力的に未来創造に取り組んだ。その背景には、未来が自らの手から離れていることへの危惧があり、未来を人類一人一人の手に取り戻すために、小松は社会とSFを結合させていったのではないだろうか。
Photo:つのだよしお/アフロ
今、われわれは2度目の東京オリンピック・パラリンピックと大阪・関西万博(EXPO2025)のはざまの時を過ごし、そこではSF活用のムーブメントが再び盛り上がっている。これを偶然と片付けるのは簡単だが、このような相似があるからこそ、過去に学べることは間違いなく多い。
先行き不透明な時代だからこそ、コロナ禍のその先を生き延びるために――。企業も、個人も、今こそ小松の言葉に耳を傾けてほしい。