今を予言した小説の数々
優れた未来学者としての小松左京

 SF小説はあくまでフィクションであり、未来予測が目的ではない。とはいえ、小松作品においては未来予測もかなり当たっている。例えばこの一文を読んでみてほしい。

「たかがかぜぐらいで、非常事態宣言は大げさすぎると思うだろうが、ここは早めに手を打つべきじゃないか?」

 64年に発表された小説『復活の日』に登場するセリフである。未知のウイルスの感染が拡大して人類が滅亡に追いやられる……という筋立ての物語で、ここまで正確にコロナ禍を予言しているのだ。続いて、こちらはどうだろう。

 今の社会は、コンピューターや、電子情報処理装置にたよりすぎている……。
 その警告は、前世紀末から、あきるほどくりかえされていた。(中略)しかし、全世界の、電子情報機械の利用は、そんなささやかなつまずきを、はるかにこえる巨大な奔流となって、拡大されていったのである。

 インターネットの誕生以前に書かれた『継ぐのは誰か?』(1968年)の一節である。この作品には、電子図書館、携帯電話、電子脳、世界(グローバル)コンピューター・ネットワークといったテクノロジーが多数登場し、ネット社会の状況をかなり正確に言い当てているばかりか、それらが普及した世界におけるセキュリティーの不安まで的確に語られている。

 想像力が豊かなだけでは、ここまで鋭く未来を洞察するのは不可能だ。実際、小松は並々ならぬ熱意を傾けて「未来」を研究した人物だった。66年には民族学者の梅棹忠夫らと「未来学研究会」を設立しており、これが後の「日本未来学会」に発展する。つまり、日本における未来学の始祖でもあるのだ。

 面白いのは、この活動によって「未来学ブーム」が巻き起こり、小松の元に「トイレットペーパーの未来」「味噌の未来」といった原稿依頼が殺到したという話で、安直な世間の風潮にへきえきとしている様子が自身のエッセイで軽妙に語られている。同時に、こうしたブームを上から目線で批判する文化人にも苦言を呈しているのが小松らしさだ。ブームをただ娯楽として消費するのではなく、冷笑するでもなく、創造的に活用していこう――。小松の活動にはそんな思いが通底しているように感じる。特に未来論集『シンポジウム未来計画』(1967年)は今も色あせないヒントに満ちた良書なので、興味のある向きはぜひ手に取ってほしいのだが、ここでは小松が「『創造性を開発する方法』の開発」が重要だと述べていることに触れておきたい。そう、そのものズバリ「SF思考」と同じことを提唱しているのだ。