前記の経済構造は、アンゴラおよびイギリスの非石油産業分野の経済に似たようなダメージを与えている。英産業の斜陽はアンゴラほど悲惨ではないものの、将来への警鐘として大きな示唆を与えてくれている。それは、支配的産業への過剰な富の集中は、他の産業分野の成長を抑制し、破壊しかねないというものだ。国に流れ込む過剰なカネの大河は、長期的には経済の発展を阻害し、国そのものを多方面から頽廃させる可能性が極めて高い。

1970年代から始まった英製造業の衰退が、他国を凌ぐ速さで起きたことと、英金融セクターの資産がGDPの10倍以上に膨らみ、比較可能な西側諸国の間でも、その経済規模に占める金融資産の割合が群を抜いて増加していたことは偶然ではない。

また、偶然の一致とは言えないもう1つの要素が、ロンドンのシティに毎週何兆ドルものカネが流入し、レストランや劇場に入り浸る華やかな実業家たちがいる一方、イギリス全体としてみると、他の同等諸国と比較しても何ら恵まれているとはいえず、見方によってはむしろ劣っているかもしれないという点だ。イギリスの一人当たりのGDPは、北欧の同等国よりも低く、貧富の差はより大きく、医療、福祉の総合的な満足度も劣っているのである。

通常ならば、巨大な金融セクターから市場の他の分野に対して投資を期待するところだが、現在までのところ、真逆の現象が生じている。1世紀ほど前までは、銀行融資の8割は実体経済を担う企業への融資であったが、今では主に銀行間貸借や住宅と商業不動産分野に流れ、イギリスの銀行貸し出しのうち、金融セクター以外のビジネスに回るのは1割強にすぎない。すなわち、イギリスにおける非金融分野への投資は、イタリアの水準すら下回り、G7各国の中でも最低水準だ。この傾向は長期的なもので、1997年以来、OECD諸国―それもメキシコ、チリ、トルコを含む上位34ヶ国のうち最下位で推移している。

多くのイギリス人は、「競争力」を有すると考えられている低税率、金融中心の経済に誇りを持っている。しかし、一人当たりの所得水準では、イギリスの経済規模は北欧のどの国のそれよりも小さく、さらには高税率のフランスと比較しても25%以上生産性が低い。ロンドン以外の場所では生産性はさらに低く、この状態はかなり長期にわたって続いている。

難しい政治課題への対処から逃避し、不景気の埋め合わせをするために、歴代政権は金融緩和策などを掲げ、結果として1960年代以降には、潜在的な経済規模の3倍の速度で銀行の資産が膨らむことを容認した。しかし、この資産のほとんどは金融セクター内で循環しているだけで、本来それを必要とする人々に、そして実体経済には回らず、完全に乖離した形で存在してしまった。金融化の時代の変化は、通常のビジネスや市井の人々とは無関係のところで起こったものなのだ。

ここで先ほどと同じ質問が頭をもたげてくる。より大きな疑問として、これらは「一体何のためなのか?」ということだ。

イギリスの著名な金融コメンテーター、ジョン・ケイは、この問題提起とともに彼自身の分析を次のように述べている。

「限られた数人が互いにカネを交換し合っても、常識で考えれば、このカネの総額は大して変わらないことは自明であろう。しかし、もしその中のごく限られた人が極端に多額の利益を上げるならば、その利益は同サークル内の他のメンバーの犠牲の上に得られたものでしかない」

しかし、金融の呪いの分析によれば、ケイの推論よりも結果はさらに酷いものになる。実は、この過剰な金融セクターの中を渦巻くように循環するカネは、私たちすべてを貧困化させているようなのだ。イギリスでは「シティは金の卵を産むガチョウ」といわれている。しかし、金融の呪いの観点からは、シティの違った側面が暴露される。それは、他の産業を締め出す、鳥にたとえるなら托卵することで知られるカッコウだというのだ。