仕事や学びを「ワクワクする物語」に変える方法

 宮沢賢治は、岩手・花巻に生まれ育つ。体が弱かったこともあり、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業した後は、家業の手伝いと研究活動などを行き来するニートのような生活を送った。そのため、職業人として本格的にキャリアをスタートさせたのは、稗貫(ひえぬき)農学校(現・花巻農業高校)の教師になった25歳のことである。

 農家の子弟の教育の場であるこの学校で、賢治は『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』といった自作の物語を読み聞かせの教材にした。『注文の多い料理店』も、元は生徒たちの演劇の脚本として書かれたものだという。今では誰でも知っているこれらの超名作の読者が、最初は農学校のわずかな生徒だけだった、というのはなかなか衝撃的な事実ではないだろうか。

 教師としての賢治像は、作家・畑山博によって『教師 宮沢賢治のしごと』という本にまとめられており、とてつもなく魅力的な授業の様子が活写されているので、賢治ファンにはぜひ一読をお勧めしたい。代数、肥料学、土壌学など、どんなテーマでも、賢治にかかれば飛び切り面白い物語になった。生徒たちは授業を待ちわび、目を輝かせてワクワクと学んだという。誰もが「こんな授業が受けたかった!」と思うはずだ。

 教師を退職した後は、私塾「羅須地人協会」を立ち上げ、自ら畑を耕して野菜などを栽培しつつ、科学的な知見に基づいた土壌改良や施肥の指導など、農業技術の指導に精力的に取り組んでいる。さらに晩年には、土壌改良材として欠かせない石灰を自ら売り歩くセールスパーソンとなり、営業活動に走り回った。

 このように、賢治は一貫して「国民的作家」というイメージからは遠い、「実践の人」「無名の人」として生きている。同時に、おびただしい名作も生み出している。なぜそんなことができたのか。それは、賢治の芸術論がコンパクトに表現された感動的な名文「農民芸術概論綱要」を読めば分かる。青空文庫で全文が読めるが、一部をここに抜粋してみよう。

いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
 
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
 
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である

 私たちはみんな芸術家だ! これ、筆者が『SF思考』で言いたかったこととほぼ同じである。農業という実業に携わる人たちに「芸術家になろう」と呼び掛けた賢治のように、筆者は全てのビジネスパーソンに「SF作家になろう」と強く呼び掛けたいのだ。