「前に習え」「気をつけ」など軍隊教育の名残もあるように、その義務感ゆえに愉しむどころか「運動嫌い」を増やしてしまっている側面もあると思います。現在の体育やいわゆる体育会系の枠組みからは、スポーツが本来持つ「愉しむ」という価値が削ぎ落とされてしまっている側面もあると感じます。指導者の方々は、脈々と受け継がれていることを大切にしながら真摯に取り組んでいらっしゃるのでしょうが、見直しをしながらアップデートできる部分もあるのではないかと思うのです。

 我々が教わった体育という構造を、そのまま下の世代に伝えて、またその下の世代に伝えていくと、40年、50年分の遅れが生じます。だから、私たちは「中継ぎ」として非常に責任あるポジションにいます。良いものは残しつつ、もっと他に良い方法がないかと模索したり、エビデンスをもって証明したりする。我々は若い世代の皆さんのためにアウトプットする立場で仕事をするわけですが、常に疑い続けながらインプットすることを忘れてはいけません。

スポーツ指導者に求められる
疑い続けながらインプットする姿勢

 指導者として大切なのは、常識を疑い謙虚に学んだものを言葉に変えて伝えること。その中でも学ぶ力が重要です。自分をまだ成長させるという気持ちがないとできませんし、常識とされるものを疑いながら学ぶのは簡単ではありません。

 指導者として人の前に立ち、何かを導こうとすると、自分が完璧でないと不安になってしまいますよね。でも、完璧な状態って難しい。そんなときに「完璧であることを装う」のが最も良くないこと。上位下達の枠組みで強引にやるよりは、一緒に学ぶくらいの姿勢でよいのはないでしょうか。

 先生という立場は、「先に生まれた」だけのこと。その分、多少知見はある。その経験からくる知見はシェアするけれども、それを題材にして一緒に考えてみよう、というくらいの姿勢でいいのだと思います。

「本当のリーダーとは、多くの事柄を成し遂げる人ではなく、自分をはるかに超えるような人材を残す人だ」と語ったのは、世界でも最も貧しい大統領とも言われた、ホセ・ムヒカさん(ウルグアイの第40代大統領)です。こういった人材を残すためには、自分の経験したことだけを伝えていてもダメですよね。後進を色々な人に会わせたり、本や映像を共有したり、自分の領域外のことも伝えるための努力が必要です。