論破のための武器ではなく、
“論理の平和利用”

苫野:もちろん、時には相手を論破することが必要な時もあります。

 たとえば、人間は自由に生きていいから、無差別殺人しても問題ないという自分勝手な主張に対しては、徹底的に論破しなければならないし、それは可能です。

 ただ、なぜ論破、というか、私たちが議論をするのかというと、つきつめれば人間が共生するためなのだと私は思います。

 私たちはどうしたって、多様な人たち同士、一緒に生きていかざるをえない。

 そのためにこそ、論破ではなく、共通了解を見出し合う思考法や対話法を身につけられたらいいなと思います。

星:少し冒頭の話に戻りますが、論破の風潮が虚しく感じる理由の一つに、「論理が論破の武器として使われてしまっていること」があると思っています。

 そもそも論理というのは、理性的に考えるトレーニングさえ積めば、すべての人が平等に立てる土壌です。

 それをあえて相手を論破するために使うというのが悲しいと感じるわけです。

 たとえば、僕は「論理の外側で共感しよう」みたいなことをよく話します。

 いったん、論理を向こうに置いて、互いの人格対立にならずに、理路整然とできるようなやり方として「論理」というツールを使うべきだと思います。

 だから相手を論破だの、切り倒すなんていう論理の使い方は間違っていると感じます。

苫野:論理はそもそも共通の土台をつくるためのものである、という発想は素晴らしいと思います。

 それを共有しないと、言葉は論破のための道具になってしまうんですね。

 私たちは何のために言葉や論理を生み出してきたのか。

 つきつめれば、やはり、異なる人同士が、暴力ではなく言論を通して共通理解を図り、共に生きていくためなのだと思います。