論破したい人の「帰謬法」に厳重注意!
苫野:ただ皮肉なもので、論破というのは多くの場合、相手の矛盾点や例外を突いて、その主張が成立しないことを暴き立てるというやり方を取るんです。
これを帰謬法(きびゅうほう)というんですが、これを使えばどんな命題でも否定できてしまいます。
帰謬法によって、結局はすべてを相対化する、つまり不確かさの中に投げ込むのだとしたら、皮肉なことです。
星:私もその皮肉な部分が寂しさの根源だと感じています。
確かさを得たような気分にはなるけれど、実は薄弱な物に落とし込まれている。
では、建設的に人と話す際には、何に気をつけるべきでしょうか?
苫野:確かに、絶対に正しい意見というものはありません。
だから、どんな意見についても、「それは絶対とは言えませんよね」といった仕方で「論破」することは可能です。
なのですが、そのうえでどうしても疑いの余地のないものがあるんです。
いかにも哲学、といったお話をしますが、例えば、目の前に存在しているコップが本当に存在しているかは、極論疑おうと思ったら疑えます。
徹底した帰謬論者なら、「幻影かもしれないし、絶対に存在しているとは言えないでしょ」といった仕方で、コップの存在さえ否定しようとするでしょう。
でも、どんな帰謬論者も論破できないことがある。
それは、私にはこのコップが「見えてしまっている」ということです。
そしてそのことを根拠に、私はこのコップが存在していると「確信」している。
コップが絶対にあるとはいえないけど、その存在を私は「確信」あるいは「信憑」しちゃってるんですね。
そしてそのことは、帰謬論者もどう頑張っても論破できない。
現象学という哲学を創始した、20世紀の哲学者フッサールが明らかにしたことです。
今のは極端な例ですが、これを意見の対立などをめぐる議論に応用するとこういえます。
良い教育とは何か、良い社会とは何か、新型コロナ対策をどうするか、ウクライナでの戦争をどうするか。
こういった意味や価値にまつわる問題に、絶対的に正しい答えはありません。
でも私たちは、これらについて何らかの「確信」や「信憑」を持ちうるし、より正確にいえば、一切はつまるところ私の「確信」「信憑」であるほかありません。
論破好きの人は、よく、「それはあなたの個人的な意見ですよね?」といって相手の主張を相対化しようとしますが、哲学からすればそれは当たり前のことで、すべては私の確信・信憑以外の何ものでもありません。
でもだからこそ、私たちはこう問い合う必要があるんです。
「では、あなたの意見、確信、信憑は何ですか?
お互いにつき合わせて、共通了解を見出し合いませんか?」
「それもあなたの意見でしょ?」
なんて大前提のことで、だからこそ、お互いの考えを交換し合い共通了解を見出し合っていく。
この姿勢が、建設的な対話のまずは第一歩だと思います。
星:「帰謬法にダマされるな!」ということですよね。
例えば、相手が例外を突く論破をしてきた時には、まずは自分の主張の根拠を提示したうえで、
「あなたはどういう根拠で逆の立場なんですか?」
と聞き直せば、その相手をいなすことができるかもしれないですよね。