ロングセラー書籍『コンテナ物語--世界を変えたのは「箱」の発明だった』(日経BP社)の著者マルク・レヴィンソンの最新刊『物流の世界史--グローバル化の主役は、どのように「モノ」から「情報」になったか?』より、その一部をご紹介する。

1980年代に起きた様々な変化が世界経済を変貌させたように、第一のグローバル化も混乱をもたらした。製造業はいっせいに国境を越えはじめた。1851年にニューヨークで創業したシンガーはミシンを実用化して販売に乗り出し、1855年にパリに支店を、1867年にグラスゴーに工場を開設した。その後の50年間に、主にヨーロッパや米国に拠点を置く繊維・化学・機械・消費財のメーカーが世界中でブランドを確立した。18世紀末に創業したスコットランドの紡績メーカー、J&Pコーツはロシア・ブラジル・日本などの遠隔地に工場を買い取るなど、1896年から1913年の間に40件の対外投資を行っている。国際競争が激化すると、鉱山会社、ガラスメーカー、セメントメーカーなどは輸入品による市場の混乱を防ぐため、国際カルテルを結成した。

国際金融がさかんになると、莫大な富がロンドンをはじめとする特定の場所に集中するようになり、新たな社会格差を生み出した。フランス、ドイツ、とくに英国の銀行家や富裕な投資家が巨額の資金を外国に貸しつける一方で、米国・カナダ・アルゼンチンなどの債務国は鉄道建設や産業振興のため、外国の貸し手や投資家に大きく依存するようになる。米国の鉄道建設が最高潮を迎えた1880年代、鉄道に投下された資金の5分の2はヨーロッパからの資金だった。1913年になると英国の富の3分の1が外国に投資され、アルゼンチンの全事業資産の半分が外国人の所有となった。外資が所有する事業資産がグローバル経済に重要な位置を占めていた点で、半世紀後の世界経済とよく似ている。当時の企業も、そうした事業資産を使って技術やマーケティングのノウハウを世界に広めていった。ただしほとんどの場合、重要な経営・研究・技術開発などの業務はあくまで本国に置かれた。これらの会社は国際企業ではなく、国外で事業展開してはいるものの、あくまで英国やドイツや米国の会社だったのだ。

20世紀末から21世紀初頭にかけてそうだったように、第一のグローバル化も大量の人の移動を伴った。「かつては少数の特権階級だけが外国に出かけていたが、今では銀行員や職工や商人までがフランスやイタリアを訪れている」。第一次大戦前の時代を、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクはこう回想している。「国境を越えた移動」がどれくらいの規模だったのか、真相はなかなかわからない。大帝国の時代だから、リビアからレバノンに移住してもオスマン帝国内の移動に過ぎないし、ダブリンからリヴァプールに移住しても英国内の移動である。したがって、1841年から1855年にかけてアイルランド人の4分の1ほどが移民したという見積もりは、おそらく実際より少なめなのだろう。だが他の国については人の移動を示すデータがたくさんある。1880年代にノルウェーの人口の10分の1が国を離れ、20世紀初頭には毎年イタリア人の50人に1人が移住している。受け入れ側を見ても、19世紀後半の米国在住者の7人に1人が移民であり、1914年のアルゼンチン人の3分の1近くが外国生まれ、おそらくはイタリアやスペインなどで生まれている。

データとして把握できない人の動きも多く、大規模な移民の波が外国へと流れていった。1914年までの数十年で、推定2900万のインド人がフィジー、ガイアナ、ケニアなどの多様な土地に移民し、中国南部からは推定2000万がビルマ、シンガポール、オランダ領東インド、インドシナなどへ移住した。さらに北に目を転じると、数百万のロシア系住民や、数百万の中国人が中央アジアやシベリアに移住した。これらを合わせると、20世紀初頭はそれ以前のどの時代をも上回る、年間300万人以上が国境を越えて移動していたことになる。

植民地経営が世界貿易を押し上げた

さらに見過ごせないのは、第一のグローバル化がヨーロッパ主導だったということだ。国際投資の約4分の3はヨーロッパ資本によるもので、その大部分が中南米やアジアの貧しい地域の鉱山やプランテーションに投資された。貿易額は爆発的に増加し、1913年には100年前の約30倍に膨らんだが、世界貿易の40%はヨーロッパの国同士で行われていた。ヨーロッパ大陸には鉄道や内陸水路が張り巡らされ、各国経済が密接に結ばれ、さらに国際協定も整備されて貿易促進がはかられた。

スイスアルプスを貫くゴットハード鉄道トンネルは、イタリア・スイス・ドイツ政府が建設費を補助して1882年に完成した。また国際機関「ライン川航行中央委員会」がライン川の主要流路の直線化、水深確保のプロジェクトを多数手がけ、1890年から1914年までに、オランダ=ドイツ間のバージ船による貨物運賃は4分の1まで低下した。こうして国際間の往来が緊密化したことで、一部の製造業ではヨーロッパの複数の国で事業展開することが当たり前になり、ミシンが英国からイタリアに、化学製品がドイツからフランスに定期的に出荷されるようになった。

さらに世界貿易の37%も、ヨーロッパと他の地域の間で行われたものだった。大部分は植民地経営によるもので、ヨーロッパの国々が植民地を拠点として自国で生産できない鉱物や農産物を調達したり、自分たちの輸出品を植民地に輸出して本国の工場労働者の雇用を守ったりした。最もあくどい例はベルギー領コンゴである。

ビル・ゲイツが激賞した『コンテナ物語』著者が指摘する「ヨーロッパが主導した第一のグローバル化」コンゴ(写真はイメージ。Photo: Adobe Stock)

コンゴは1885年から1908年にかけて国王レオポルドの私領だったが、その後はベルギー政府が統治する植民地となった。住民はジャングルで輸出用のゴムの収穫にかり出され、ノルマを果たせないと残虐な罰を受けた。また1913年の世界貿易のうち、ヨーロッパ域内=植民地間を除くヨーロッパの主要貿易相手国は米国だった。米国の輸出の約3分の2がヨーロッパ向けで、綿花・小麦・銅などの天然資源を中心に、わずかながら機械類や農機具も輸出された。ただしヨーロッパと違い、米国は19世紀に国内工場保護のためたびたび関税を引き上げたから、その間に工業製品の輸入量は着実に減少していった。

第一のグローバル化のピーク時、ヨーロッパ以外の国同士の貿易は世界貿易の4分の1にも満たなかった。1840年代から1850年代にかけて、英国をはじめとする列強が敗戦国・中国にインド産アヘンを含む大量の輸入を強要したが、それでも世界経済における東アジアの役割は小さく、しかも縮小傾向にあった。インドについても同じことが言える。1853年に米海軍の砲艦によって貿易の扉をこじあけられた日本は例外で、1860年代以降は貿易が急速に増えたとはいえ、そもそもゼロからの出発であり、1913年時点の輸出高は米国の8分の1に過ぎなかった。また中南米でも域内の貿易はほとんどなく、米国からの輸入も少なかった。

このように貿易が活発化しても、世界経済が国内経済や労働者の生活にまで影響を及ぼすことはなかった。英国ではジャマイカ産の砂糖、ロシア産の小麦、デンマーク産のバターなど、摂取カロリーの3分の2近くが輸入品で占められていたが、中国での数字はおそらくゼロに近かっただろう。経済学者の試算によれば、世界全体のGNP(国民総生産)に占める輸出入の割合は、ワーテルローでのナポレオンの敗北でヨーロッパに平和がもたらされた1815年に3%未満だったが、1913年には8~12%に上昇している。しかし高速の外洋船が世界の港を結ぶようになっても、1913年当時の貨物の中心は一次産品、すなわち昔ながらの貿易品である鉱物・繊維・食料だった。しかもニカラグアのバナナ、オーストラリアの羊毛と金、タイのコメといったように、交易品が1種類ないし2種類しかない国が多かった。それぞれの国民レベルでは、貿易の全体的動向よりも特定の製品の価格のほうが影響が大きかった。例えばヨーロッパでココア需要が低迷したり原産地のアフリカで供給過剰が起きたりしてココアが値下がりすれば、ココア輸出国は苦境に立たされた。グローバル化とはいっても、資本主義が登場するずっと以前の時代は、多くの国の経済は特定分野に依存しすぎていたのである。

20世紀の初頭、原材料より工業製品を多く輸出していたのは日本・米国・ヨーロッパの一部など、一握りの国に過ぎなかった。現代的な意味でのサプライチェーン、すなわちある国の工場が特定の部品や化学品を製造し、別の国の工場へ送るといったかたちは皆無と言ってよかった。当時の貿易に関する米政府の調査によれば、1906年に「製造原材料として使用するために部分的または完全に製造された物品の輸入」は約1億1300万ドルとされている。政府の算定では、米国の製造現場21万6262ヵ所で使用された原材料の総額は85億ドルだから、米国の工場が仕入れた製造原材料のうち、輸入された製造物の割合はたった1・3%しかなかったことになる。

とはいえ世界経済がこのまま急速に工業化していけば、いずれは各国の産業間により複雑なつながりが生じ、より複雑なサプライチェーンが出現するはずだった。だがそうはならなかった。1914年、第一のグローバル化はあっけなく中断されてしまうのである。