19世紀、デヴィッド・リカードが貿易の大原則である「比較優位」を唱えるのと、時を同じくして産業資本主義の誕生とともに「第一のグローバル化」が幕を開けた--。ビル・ゲイツも激賞したロングセラー書籍『コンテナ物語--世界を変えたのは「箱」の発明だった』(日経BP)などで知られるマルク・レヴィンソンの最新刊『物流の世界史--グローバル化の主役は、どのように「モノ」から「情報」になったか?』から一部をご紹介する。

第一のグローバル化

グローバル化への道を開いた思想家が、自らもグローバル化の申し子だったのは偶然ではないかもしれない。

デヴィッド・リカードは、セファルディ系ユダヤ人の家に生まれた。ポルトガル出身の父の家系は、16世紀初頭の異端審問を逃れてイタリアに渡り、1662年頃、当時急成長しつつあった金融センターのアムステルダムに移った。父エイブラハム・リカードは1760年にアムステルダムからロンドンに移住し、アビゲイル・デルヴァッレと結婚した。

アビゲイルの一族は、1656年に英国でユダヤ人の居住が正式に認められた直後にロンドンに移住しており、デルヴァッレという姓はスペイン系のルーツを思わせる。1772年、少なくとも17人いた子どもの3番目としてデヴィッドが生まれる頃には、エイブラハムは市民権をとり、株や債券の売買で財をなしていた。そしてデヴィッドが11歳になるとアムステルダムに送って2年間勉強させたのち、家業を学ぶため英国に呼び戻した。

デヴィッド・リカードには生まれながらに金融の才があり、証券仲買人として成功し、証券取引所の経営者評議会にも連なった。国際人であり、複数の言語を話し、知的論争に好んで加わった。当時の最大の話題の一つは外国貿易であり、リカードはこれについて型破りな見解を持っていた。その考え方が公刊されたのは1815年のことで、そのなかで「穀物法」が定める輸入関税への批判が展開された。

英国の農民を外国との競争から守るのは賢明ではないという斬新な主張を展開し、輸入を認めて穀物価格を下げるべきだと指摘したのだ。そうすれば地主は収入が減って資本を製造業に振り向けるだろうから、今度は工業製品を輸出して、自給農業では実現できない量の穀物を買い入れられるようになり、地主も国も潤うとリカードは書いている。

2年後、リカードはこうした考え方を『経済学および課税の原理』という著書にまとめた。「完全な自由貿易制度のもとでは、各国は自ずからその資本と労働を自国にとって最も有利となる用途に差し向ける。こうした個別的利益の追求が、全体の普遍的利益と見事に結びつく」。これが「比較優位」の理論であり、リカードに不朽の名声を与えることになる。

重商主義者が言うように、貿易は単に他国から富を引き出す手段なのではない。むしろ英国は輸出だけでなく輸入からも利益を得られるし、相手国も同じように利益を得られる。リカードのこうした主張は、国境を越えた物流が普通の人々にとっても重要となる時代、すなわち産業資本主義の時代にぴったりと合致するものだった。

資本主義の台頭と市場開放

資本主義を定義するのはむだな努力であり、その起源を特定するのも不可能である。だが1820年代から1830年代にかけて、大規模な私企業が目につくようになったのはデータから明らかだ。

最初は英国で、その後はヨーロッパや北米の各地に登場した。確かに工業生産の大部分は、まだ小規模な工房で行われていたが、数百人規模の工場も現れてきた。並行して各国政府も、慎重にではあるが国内経済に市場原理を導入しつつあった。こうした動きは国によって違いがあるとはいえ、「資本主義」という言葉が使われるようになる1860年代になると、根本的な変化が起きていることは誰の目にも明らかだった。

工業化の初期は機械化によって賃金が下がり、スラムが増えるなど、生活水準は大きく低下したが、時とともに回復していった。都市では上下水道が整備され、小学校に資金が投入されて、すべての子どもに読書と算数を教えるようになった。交通革命・通信革命によって農村は孤立から脱し、国内の商取引は容易になった。経済史家のラリー・ニールとジェフリー・ウィリアムソンがいうように、一言で言えば「19世紀にそれぞれの形で資本主義を導入した国はどこでも、近代的な経済成長が始まった」のである。

資本主義の台頭とともにグローバル化も始まった。そのことを示す最初の兆候の一つは、1824年に英国王ジョージ4世が署名した法律で、「職人を誘惑」して外国で働かせることを禁じた法令6件以上を廃止する、という内容のものだった。これらの法令は古くは1719年に遡るもので、英国の技術で他国が繁栄するのを防ぐためのものだった。要するに自国経済を強くするには他国経済を弱くするという、重商主義の考え方である。

しかし製造業を独占するより二国間貿易のほうが英国に有利であるとのデヴィッド・リカードの主張で、熟練職人の移民禁止令は説得力を失った。しかも失業が増えたことで法令を廃止する理由ができた。自動織機に取って代わられた労働者を、外国で働けるようにするためだ。リカードは1823年に亡くなっていたが、その主張を支持する人は増えていった。その影響のもとに、続く20年に一連の法律が生まれて英国は外国製品に市場を開放し、他の国々も追随するようになっていく。

市場開放は利他主義ではない。英国は世界をリードする抜きん出た工業大国であり、主力産業は綿紡績だった。1784年に英国の輸出品の6%に過ぎなかった綿製品は、半世紀後には49%を占め、貿易量は30倍になった。マンチェスターの紡績・織布・染色工場を効率的に稼働させるには、これまでにない量の輸入綿を調達し、これまでにない量の輸出織物の需要を確保しなければならなかった。自国市場を開放するだけでなく、他国市場の開放を促すことが喫緊の課題であり、リカードはこの自由市場という新たなイデオロギーに知的論拠を与えていたのである。

これは強力なイデオロギーだった。リカードが著書を執筆した当時、ヨーロッパ列強は戦争状態にあり、国際貿易は何年にもわたって停滞していた。それがわずか数年で、輸入品の関税は下がり、北欧・西欧の国々では貿易コストが下がって、全体的な貿易量が急速に増大しつつあった。

ビル・ゲイツが激賞した『コンテナ物語』著者による最新作『物流の世界史』より、「リカードの比較優位説誕生と19世紀の産業資本主義とともに始まった第一のグローバル化」19世紀後半のイングランドのある工場の様子(写真はイメージです。Photo: Adobe Stock)

綿花のサプライチェーンは長距離化し、ミシシッピ州のプランテーションからリヴァプール港にある仲介業者の倉庫、イングランド・ミッドランズの織物工場、さらには世界中の織物仲買人へと伸びていった。グローバル化する綿産業の競争は熾烈で、経費縮小の圧力は高まり、綿を栽培・輸送・加工する人々の労働条件はどの国でも悪化した。米国では1820年代から1830年代にかけて奴隷制が西に広がり、アラバマやミシシッピ州の産業プランテーションにまで波及した。インド、ブラジル、エジプトなどでは、自家消費用の作物を栽培していた小規模農家が、英国の際限ない綿需要に応えるため否応なく小作人に変えられていった。英国の都市部で紡績や織布に携わっていた人々の労働環境も似たりよったりだった。

工場はどんどん増え、雇われた労働者で都市はひしめき、1830年代から1840年代には平均身長も平均余命も下がっていった。綿の粉塵が充満するなかでの12時間労働は当たり前で、それをなんとか乗り越えても、ひっきりなしの織機の騒音で難聴になる者もいた。チャールズ・ディケンズは、都会に出てきたばかりの1830年代の労働者家庭の様子を印象的に描いている。「部屋は狭く、汚く、通気も悪く、家のなかの泥や汚物よりも、さらに空気のほうが汚れているように見えるほどだ」。ディケンズが描き出したサウスロンドンの暮らしぶりは、そのままマンチェスターやボルトンにもあてはまっていたはずだ。

それでも経費削減の努力は一定の成果を上げ、のちにファースト・ムーバー・アドバンテージ(先手優位)と呼ばれるものを英国にもたらした。1820年代以後、アジアでは安価な英国綿が地元産の綿を駆逐していった。インドは長年にわたって綿織物の最大の生産国であり輸出国でもあったが、宗主国英国にその地位を奪われることになった。インドは1820年代に中東と北アフリカの市場からも淘汰され、19世紀後半までにインド亜大陸の繊維消費の3分の2を英国製品が占めるようになった。

ある試算によれば、1840年の中国の綿花生産量は、人口が半分だった1750年よりも低かったという。19世紀半ば、フランスやベルギーなど大陸の国々が英国にならって近代的繊維産業を立ち上げようとしたが、競争力で太刀打ちできなかった。英国と同じコストで綿布を生産するには、安価な英国糸に頼るしかなかったからである。

蒸気船と電信がもたらした革命

世界規模で綿花産業を展開するには、安上がりな交通手段が不可欠だった。(続きは本書でお楽しみください!)