猫はなぜ高いところから落ちても足から着地できるのか? 科学者は何百年も昔から、猫の宙返りに心惹かれ、物理、光学、数学、神経科学、ロボティクスなどのアプローチからその驚くべき謎を探究してきた。「ネコひねり問題」を解き明かすとともに、猫をめぐる科学者たちの真摯かつ愉快な研究エピソードの数々を紹介する『「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた』が発刊された。
養老孟司氏(解剖学者)「猫にまつわる挿話もとても面白い。苦手な人でも物理を勉強したくなるだろう。」、円城塔氏(作家)「夏目漱石がもし本書を読んでいたならば、『吾輩は猫である』作中の水島寒月は、「首縊りの力学」にならべて「ネコひねり問題」を講じただろう。」、吉川浩満氏(文筆家)「猫の宙返りから科学史が見える! こんな本ほかにある?」、ヨビノリたくみ氏(教育系YouTuber)「力学、ロボット工学、相対性理論、etc…。内容の濃さにひっくり返りました。この本は「ネコひねり問題」の皮を被った壮大な科学史の本です。」と絶賛された、本書の内容の一部を紹介します。

【世界中で話題の意外な超難問】「お湯」は「水」よりも早く凍る?アフリカの学生が発見した「ムペンバ効果」とは?Photo: Adobe Stock

ありふれた現象なのに説明が難しい

 一見したところありふれた物理現象なのに、何年も、場合によっては何十年も簡潔に説明できていないものがいくつもある。

 そのような物理現象に対してはいくつもの説が提唱されていて、それらの説を検証する実験を考え出すのは難しい。しかも猫の落下の問題と同じように、複数の要素が関わっているのだ。

 前に取り上げた地球のチャンドラー揺動もその一例である。地球が完全な剛体でないことが原因であるのはすぐに分かったものの、その発見から一〇〇年以上経ったいまでも、いくつもの主要な要因に関して研究が進められているのだ。

水は沸騰させたほうが速く凍る?

 もう一つ、簡単に取り上げておくべき例がある。一九六九年、タンザニアの学生エラスト・ムペンバとダルエスサラーム・ユニヴァーシティーカレッジの物理学教授D・G・オズボーンが、学術誌『物理教育』に驚くべき論文を発表した。

『クール?』というシンプルなタイトルが付けられたその論文には、ある条件のもとでは常温の水よりも沸騰した水のほうが速く凍るという証拠が示されていた([1])。この論文が発表されると科学界に謎と論争が生まれ、五〇年経ったいまでも解決されていないのだ。

アイスクリームを作っていた

 ムペンバはこの効果を発見した当時、そんな大それたことはけっして望んでいなかった。中等学校に通っていた一九六三年、クラスメイトと一緒にアイスクリームを作っていた。

 レシピには、材料を沸騰させて常温まで冷ましてから冷凍庫に入れるよう書いてあった。しかし冷凍庫が狭かったため、あるときクラスメイトが冷めた材料を入れるのと同時に、自分は沸騰したままの材料を入れてみた。

 すると驚いたことに、ムペンバの入れたアイスクリームのほうが先に凍ったのだ。直感に反するこの結果を先生に話しても、真に受けてはくれなかった。そこで学校を訪ねてきたオズボーン教授に質問してみると、幸いにも実験してくれることになった。

驚きの実験結果

 実験結果にオズボーンは仰天した。「ダルエスサラーム・ユニヴァーシティーカレッジの若い技師に検証してもらった。すると技師は、確かに最初高温だった水のほうが先に凍ったと報告した上で、すぐさま科学者にあるまじき意気込みを付け加えた。『正しい結果が得られるまで実験を繰り返します』とね([2])」

 冷たい水よりも熱い水のほうが速く凍る場合があると指摘したのは、ムペンバが最初ではない。二〇〇〇年以上前からそのような観察結果が存在するのだ。紀元前三五〇年頃のギリシャでは、アリストテレスが次のように記している。

 水はそれまで温められていたことで速く凍る。それによって速く冷えるからだ。(そのため多くの人は、水を速く冷やしたいときには日光に当てる。ポントスの人々は、魚を釣るために氷の上にテントを立てる際(氷に穴を開けてそこから釣りをする)、支柱のまわりに温水をかけて速く凍るようにする。氷を錘のようにして支柱を固定するのだ)。

 しかしいまは暑い国の暑い季節なので、氷が融けはじめてすぐに温まってしまう([3])。

デカルトもこの問題を考えた

 それから何世紀も経った一六二〇年には、自然哲学者のフランシス・ベーコンも著書『ノヴム・オルガヌム(科学の新しい道具)』の中で、「かなり冷たい水よりも少し温めた水のほうが容易に凍る」と述べている。

 一六三七年には、猫を投げ落としたとされるあのルネ・デカルトが有名な『方法序説』の付録『気象学』の中で、「長時間高温に保った水がそれ以外の水よりも速く凍ることは、実験によっても確かめられる」と記している([4])。

 ムペンバがアイスクリームを作っていてこの現象に気づいて以降、何度も再現実験がおこなわれたが、この効果の存在を示す結果が得られたものもあれば、いっさい効果が見られなかったものもある。

ムペンバ効果のいくつかの仮説

 「ムペンバ効果は実在するか」という疑問に答えるのがきわめて難しいのは、猫の落下の場合と同じくいくつもの仮説が提唱されていて、いくつもの要素が関わっているからにほかならない。

 ムペンバ効果を説明するために提唱された仮説をいくつか紹介しよう([5])。

 ・対流による熱移動 液体を加熱すると対流が発生して、高温の液体が液面まですばやく移動し、蒸発によって熱が奪われる。オズボーンが気づいたとおり、この対流によって底よりも上のほうが高温である状態が保たれる。最初から低温で対流による冷却が進まない液体と同じ割合で温度が下がったとしても、それは成り立つ。この温度差によって冷却スピードが速まり、それによってムペンバの観察結果は説明できる。

 ・蒸発 沸騰している、またはきわめて高温の液体は、蒸発によってその質量の一部が失われる。質量が減少すればそれだけ速く冷えて、ムペンバ効果が加速するだろう。しかしオズボーンが気づいたとおり、蒸発だけでは高温の液体の冷却スピードを残らず説明することはできない。

 ・脱気 一九八八年にポーランドの研究グループがムペンバ効果の再現に成功し、その効果の大きさが水中に溶けている気体の量に大きく左右されることに気づいた。水から空気と二酸化炭素を取り除いたところ、凍りはじめるまでの時間が最初の温度に比例するようになった。

  そこでこの研究者たちは、気体が溶けていたことで冷却スピードが大幅に下がったのではないかと論じている。水を加熱すると中から気体が追い出され、それで速く冷えたのだろう([6])。

 ・過冷却 一九九五年にドイツ人科学者のダフィット・アウアーバッハが、ムペンバ効果は過冷却によって説明できると提唱し、それを裏付ける実験をおこなった。通常の凝固点より低い温度でも液体のままであることを、過冷却という。それが起こるのは、液体の純度がきわめて高く、しかもじっとさせたまま冷やした場合に限られる。

  アウアーバッハの仮説によると、高温の水よりも低温の水のほうが低い温度まで過冷却されるために、高温の水のほうが先に凍るのだという。ニューヨーク州立大学ビンガムトン校のジェイムズ・ブラウンリッジは、二〇一〇年頃にこの過冷却仮説を検証する実験を二八回おこない、そのすべてでムペンバ効果の観察に成功した([7])。

 ・溶質の移動 二〇〇九年にワシントン大学のJ・I・カッツが示した仮説によれば、以前に提唱されたとおり、低温の水では中に溶質(気体)が存在していることで凝固プロセスが遅くなるだけでなく、凍った部分からまだ凍っていない部分にその溶質が追いやられ、それによって冷却プロセスからさらに遅くなるのだという([8])。

「凍る」とはどういうことか?

 ほかにもいくつもの論文や仮説が出されている。このように考えられる原因が多岐にわたるせいで、ムペンバ効果を特定したり、さらには高い信頼性で再現したりするのは難しい。

 猫の宙返りと同じように複数のメカニズムが作用しているとしたら、一つだけのメカニズムを検証する実験をおこなったところで効果を観察できそうにない。もう一つの問題が、「凍る」という言葉を厳密に定義するのが難しいことである。

 ムペンバ効果の実験では、液体が完全に固体になって初めて凍ったことになるのか、それとも氷が現れはじめたらそれで凍ったと言っていいのか?

 これらの疑問がすべて水泡に帰すのではないかと思われる出来事が起こった。二〇一六年にケンブリッジ大学とインペリアルカレッジ・ロンドンの研究者たちが実験をおこない、残念なことにムペンバ効果の証拠はいっさい見られなかったと結論づけたのだ。

劇的な展開

 ところがその後、奇妙な現象にふさわしい劇的な展開が訪れる。二〇一七年に二つの研究グループが互いに独立に、理論上は熱的系がムペンバ効果を示す可能性があることを証明したのだ。これによって激しい論争は続き、次の世代の科学者も謎に挑みつづけることだろう([9])。

 ムペンバ本人がこの研究を続けることはなかった。彼はタンザニアのモシにあるアフリカ野生生物管理大学で学位を取得したのち、オーストラリアとアメリカでさらに学び、タンザニア天然資源・観光省の上級職員となった。

 野生生物の管理と保護に取り組み、本書で取り上げたものよりもはるかに大きなネコ科動物と触れ合ったのは間違いない。引退後の二〇一一年にはダルエスサラームでTEDx講演をおこない、例の驚きの発見と自らの人生について語った。

ライオンやトラの宙返り?

 上級公務員を務めていたムペンバがライオンやトラの宙返りを目にすることはなかっただろう。このテーマに関する研究論文は一本もないようだが、ネット動画を手当たり次第に調べたところ、ライオンやトラは立ち直り反射を示さないようで、困ったときには木から垂直にぶら下がって後肢から地面に落ちる。

 しかしもっと身体の小さい野生のネコは立ち直り反射の能力を持っていて、アフリカに棲むカラカルが落下中にベンド・アンド・ツイストとタック・アンド・ターンを使う様子が、BBC撮影のハイスピード動画にはっきりと写っている。別の動画では、獲物をつかんだまま木から転げ落ちたヒョウが落下中に尾をプロペラのように回転させている([10])。

(本原稿は、グレゴリー・J・グバー著『「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた』〈水谷淳訳〉を抜粋・編集したものです)

【参考文献】
[1]  Mpemba and Osborne, “Cool?”
[2]  Mpemba and Osborne, “Cool?”
[3]  Aristotle, Meteorology.
[4] Bacon, Novum Organum, p. 319; Descartes, Discourse on Method, p. 268.
[5]ムペンバ効果とその歴史的展開に関するもう一つの優れた解説は、
Ouellette, “When Cold Warms Faster Than Hot.”
[6]Wojciechowski, Owczarek, and Bednarz, “Freezing of Aqueous Solutions Containing Gases.”
[7]Auerbach, “Supercooling and the Mpemba Effect: When Hot Water Freezes Quicker Than Cold”; Brownridge, “When Does Hot Water Freeze Faster Then Cold Water? A Search for the Mpemba Effect.”
[8]Katz, “When Hot Water Freezes before Cold.”
[9]Burridge and Linden, “Questioning the Mpemba Effect: Hot Water Does Not Cool More Quickly Than Cold”; Lu and Raz,“Nonequilibrium Thermodynamics of the Markovian Mpemba Effect And Its Inverse”; Lasanta et al., “When the Hotter Cools More Quickly: Mpemba Effect in Granular Fluids.”
[10] “How Do Cats Always Land on Their Feet?”; “Leopard Cub Falls Out of Tree with Kill.”