全世界で700万人に読まれたロングセラーシリーズの『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉 敏生訳)がダイヤモンド社から翻訳出版され、好評を博している。本村凌二氏(東京大学名誉教授)からも「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」と絶賛されている。その人気の理由は、カラフルで可愛いイラストで世界史の流れがつかめること。それに加えて、世界史のキーパーソンがきちんと押さえられていることも、大きな特徴となる。
世界史を揺るがすほど影響力の大きい歴史人物は、暗殺によって命を奪われてしまうことがある。暗殺は特定の目的をもって遂行されるものだが、暗殺後に歴史がどう変化したかは意外と知られていない。『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』では、キーパーソンだったがゆえに、暗殺によって生涯を閉じた歴史人物たちも数多く登場する。そのなかから今回は奴隷解放宣言で知られるアメリカ大統領のリンカーンをピックアップ。著述家・偉人研究家の真山知幸氏に寄稿していただいた。

14歳からわかるリンカーン暗殺が生んだ「史上最悪の大統領」とは?Photo: Adobe Stock

観劇中に暗殺されたリンカーン

 かけがえのない人生の楽しみが、誰にでもあるだろう。アメリカのエイブラハム・リンカーン大統領は、まさにそんな趣味の最中に暗殺された。1865年4月14日のことである。

 リチャード三世、ジュリアス・シーザー、ハムレット……シェイクスピアの演劇を欠かさず観ていたリンカーンはその夜、8時30分にはフォード劇場に妻を伴って到着した。

 その晩は芝居『われらのアメリカのいとこ(Our American Cousin)』の千秋楽だった。

急きょ来られなくなったグラント将軍

 リンカーン夫妻のそばには、ヘンリー・ラズボーン少佐と、恋人のクララ・ハリスの姿もある。若き少佐は大統領の観劇に同行する予定ではなかったが、グラント将軍夫妻が急きょ来られなくなってしまった。そのため、代役としてラズボーン少佐が選ばれたのである。

 リンカーンとしては、グラントの欠席は残念だったに違いない。グラントは南北戦争において、リンカーンが率いる北軍の指揮官として活躍。

 南軍を降伏させて、まさに前日に帰還してきたばかりだった。

南北戦争とは?

 国を2分する南北戦争が起きたのは、奴隷制に反対する共和党のリンカーンが大統領に当選したことで、奴隷制存続を望む南部11州が合衆国から脱退。アメリカ南部連合を結成したことがきっかけだった。

 グラント将軍はそんな内戦に終止符を打つべく、身を粉にして働いたのだ。大好きな芝居を観ながら、リンカーンは戦争の労をねぎらいたかったことだろう。

 だが、暗殺犯の手によって、その機会は永遠に失われることになる。

リンカーンの登場に場内が沸く

 劇場に到着すると、大統領夫妻は2階にある特別ボックスへと向かった。芝居はすでに始まっていたが、リンカーンが姿を見せると、タイミングよく舞台から主演女優が声を上げる。

「アメリカ大統領とファーストレディをお迎えいたしましょう!」

 場内に「大統領万歳」の演奏が流れて、観客は総立ちになって拍手をし始めた。

 南北戦争に北軍が勝利したばかりというタイミングもあり、劇場は戦勝ムード一色となった。

 そのころ、暗殺を目論むジョン・ウィルクス・ブースは劇場の裏口に到着。自分の馬を劇場で働く顔見知りのスタッフに預けている。

 ブースは俳優だったため、劇場の構造はよくわかっていた。

暗殺者がリンカーンを狙ったワケ

 ブースがリンカーンを狙ったのは、彼が南部連合の支持者だったからだ。南北戦争で南軍が北軍に降伏したことが、ブースにはどうしても受け入れられなかった。

 諦められないブースは「リンカーンを亡きものにすれば、北部が混乱に陥るはずだ」と考えた。そして今まさにリンカーンの暗殺計画を実行に移そうとしていたのである。

護衛官のヤバすぎる失態

 ブースがリンカーンのいる2階席に向かい、ドアに近づくと、椅子に座っているはずの護衛官はいなかった。あろうことか、大統領の護衛をサボって、近くのバーで一杯やっていたのである。

 とんでもない失態だが、ブースは「運も俺に味方している」と背中を押されたことだろう。

暗殺犯の叫び

 午後10時15分頃、リンカーンは特別ボックスに侵入してきたブースに後頭部を撃たれる。ラズボーン少佐が犯人に飛びついたが、ナイフで切りつけられてしまう。

 観客が騒然とするなか、ブースは大統領ボックスからステージに飛び降りて、ラテン語でこう叫んだ。

「暴君はいつもこうなるのだ!」

 飛び降りたときに足を骨折したブース。なんとかその場からは逃亡したものの、12日後には納屋に隠れているところを、捜索隊に包囲された。

 降伏の呼びかけに応じなかったため、ブースはその場で射殺されている。

ターゲットは3人だった

 実は、暗殺のターゲットはリンカーンだけではなかった。ブースのほかにも仲間のメンバーがおり、スーワード国務長官とジョンソン副大統領も、リンカーンと同時に暗殺する予定だった。

 だが、ジョンソン副大統領の暗殺は実行されず、スーワードについては、自宅に侵入した暗殺者に喉を突き刺されるも、一命をとりとめている。

 この時点で「有力者3人を暗殺して北部を崩壊させる」という目論見は失敗に終わった。

 リンカーンの死亡を受けて、ジョンソンが副大統領から大統領に昇格する。

リンカーンの後を継いだジョンソン大統領

 リンカーンは、南北戦争で北軍が勝利した直後に殺されてしまったため、戦後処理はジョンソンが引き継ぐこととなった。

 最大の政治課題は「脱退した南部諸州の立場をどうするのか」ということである。

 ジョンソンはリンカーンの意思を引き継いで、南部に対して寛大で穏健な政策を進めようとするが、議会では、北部の共和党急進派らの勢力が強く「敗れた南部には厳しい態度で挑むべきだ」という意見が推し通されてしまう。

 その結果、ジョンソン大統領の意思に反して、南部各州の議会は、急進派や黒人の議員に占められることになる。

 つまり、穏健派のリンカーンが暗殺されたために、敗北した南部はより急進的に改革を迫られることになった。

 暗殺者の思惑のように、「リンカーンを抹殺すれば、南部が勢いを取り戻す」という単純な展開にはならなかったのである。

グラント将軍に集まる期待

 その後、議会と対立したジョンソン大統領は、弾劾裁判にかけられている。弾劾決議の採決ではなんとか首の皮一枚つながるものの、求心力が低下したまま、リンカーンが務めるはずだった1年足らずの任期を終えると、ジョンソンは退任している。

 そして、リンカーン暗殺後、初となる大統領選挙が行われた。新リーダーに選ばれたのは、南北戦争で北部を勝利に導いたグラント将軍である。

 戦場で活躍したグラント将軍ならば、リンカーン亡きあと、混沌としているアメリカをまとめてくれるはず。多くのアメリカ国民がグラントにそんな期待を抱いたのだろう。

名将軍は名政治家にあらず

 だが、グラントが輝くのはあくまでも戦場で、政治の場ではなかった。人の良いグラントは最高権力者に群がる野心家たちに利用され、政権はスキャンダルと汚職にまみれた。

 史上最悪の大統領――。そんな評価すらされるグラント政権が、リンカーンの暗殺によって生み出されることとなった。

世界史で大局的な視点を身につける

 暗殺者に狙われる人物は、それだけの影響力を持つが、その人一人の力で状況が生み出されているわけではない。

 そのため、最も目立っている人物を除外したところで、パワーバランスが崩れて、より状況が悪化することがほとんどだといってよいだろう。

 リンカーンの暗殺はその良い例である。

アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』を読むことで、世界史を学び、大局的な視点を身につければ、短絡的な行動や思考に陥ることが防げるはず。

 先が見えない時代を生き抜くためにも、世界史の教養が、今ますます必要とされている。

【参考文献】
内田義雄『アメリカ大統領の戦争 戦争指揮官リンカーン』(文春新書)
ジェイムズ・L・スワンソン『マンハント リンカーン暗殺犯を追った12日間』(富永和子訳、早川書房)
土田宏『リンカン 神になった男の功罪』(彩流社)
ジャン=クリストフ ビュイッソン『暗殺が変えた世界史 上:カエサルからフランツ=フェルディナントまで』(神田順子訳、田辺希久子訳、原書房)