皇帝の座を巡って2つの派閥が対立

 父の死後は、ピョートルにとっては異母兄にあたる、フョードル3世が14歳の若さで即位する。

 しかし、病弱だったために即位から6年後、20歳で死去。

 皇帝の座を巡って、二つの派閥が対立することとなった。

 その派閥とは「ミロスラフスキー派」と「ナルィシュキン派」である。

 ミロスラフスキー派とは、ピョートルの父アレクセイの初婚の相手マリヤ・ミロスラフスカヤの一族のこと。

 一方、再婚相手であるピョートルの母ナルィシュキナの一族は「ナルィシュキン派」と呼ばれた。

 ナルィシュキン派はピョートルを、ミロスラフスキー派はフョードル3世の弟にあたるイヴァン5世を、それぞれ皇帝に担ごうとする。

凄惨な内部抗争で40人が殺される

 このとき、ピョートルはまだ10歳だったが、イヴァン5世は16歳。

 年齢的には、イヴァン5世のほうが皇帝にふさわしいように思える。

 だが、イヴァン5世は、兄のフョードル3世と同じく病弱で、しかも精神的に病んでいた。

 健康面でいえば、大柄で頑丈だったピョートルのほうが、はるかに皇帝に適任であった。

 ナルィシュキン派が素早く動き、10歳のピョートルをロマノフ朝第5代の皇帝の座に就かせると、ミロスラフスキー派はこれに反発。

 銃兵士を動かして、ナルィシュキン派を代表する約40人を殺害し、凄惨な内部抗争を巻き起こしている。

郊外に追い出されたピョートル

 幼いピョートルにとってはつらい経験になったに違いない。祖父もこのときに殺害されている。

 結局、どちらか一人を皇帝に選んでも事態は収まらないので、ピョートルとイヴァン5世の「二人のツァーリ」が誕生。

 共同で統治することとなった。

 なんだかうまくいきそうにない気がするが、二人はともに未成年であり、いずれにせよ摂政が必要とされた。

 摂政として実権を握ったのは、イヴァン5世の実姉で、ピョートルの義姉にあたる25歳のソフィアである。

 つまり、実質的には、ミロスラフスキー派が勝利したといえよう。ピョートルはモスクワ郊外へと追い出されることとなった。

改革の原点

 こうした皇帝に就くまでの過酷な経験が、ピョートルをたくましいリーダーへと成長させていく。

 ピョートルといえば、伝統主義から脱して、急速に西欧化させることで、ロシアを近代化させたことで知られている。

 その原点は、内部抗争に敗れたピョートルが郊外に追い出されたことにある。

 というのも、当時のロシアでは、1200人以上のヨーロッパ人を郊外の村に集めていた。

 モスクワの住民と軋轢を避けるためだったが、中央政治から外されたピョートルは、郊外の外国人村に頻繁に出入りしている。

 そこでオランダ語やダンス、フェンシングも習得した。

 伝統に縛られることなく、優れたヨーロッパの技術者たちとじかに触れ合うことができたピョートル。

 ロシアは西欧の進んだ制度や技術を取り入れなければならない――。そんな改革への熱い志は、この不遇な時代に育まれることとなった。

自ら率先して海外使節団に参加

 1694年、母を亡くすとピョートルは、その死を悼みながらも、葬儀にも翌日のミサにも欠席。

 それは、モスクワの慣習への決別を意味していた。

 2年後には、共同統治者であったイヴァン5世も病死。ピョートルの治世が本格的にスタートする。

 ピョートルは早速、ヨーロッパ諸国に大使節団を派遣する。

 それだけではない。驚くべきことに、ツァーリでありながら、自らそこに加わっているのだ。

 誰よりも自分が西欧に学びたかったのだろう。外交儀礼に振り回されないために、わざわざ匿名で参加している。

 結局は、身元を隠し通すことはできずに、公式な会合にも出席しているが、「とにかく現場を見たい」というピョートルらしい振る舞いだろう。

「ロシアの皇帝であるよりは……」

 ロンドンでは、海軍演習を熱心に見学した。

 というのも、母が亡くなり、ツァーリとして本格的に親政が始まった頃、ピョートルはアゾフ遠征を決行している。

 オスマン帝国の要塞を落とすことが遠征の目的だったが、一度目は失敗。オスマン帝国に撃破された。

 海軍を持つ必要性を痛感したピョートルは、すぐさま造船所を設けて、外国人技術者を集結。

 わずか半年でガレー船23隻を作らせるなどして、ロシア海軍を作ってしまう。

 作ったばかりの艦隊で、再びアゾフ要塞を包囲。今度はオスマン帝国を相手に見事な勝利を飾っている。

 そんな成功があっただけに、ロンドンでの見事な海軍演習に、心を打たれるものがあったらしい。

「ロシアの皇帝であるよりは、イギリス海軍の大将でありたい」とまで言って、その軍事力に感激している。

新都市の整備と軍事力の強化

 帰国後、ピョートルは西洋文明を大胆に取り入れていき、ロシアは近代化を果たす。

 首都をモスクワからヨーロッパに一番近い都市サンクトペテルブルクへと移すため、1703年に新都市の建築に着手。

 1712年に移転させた。その後、サンクトペテルブルクは「西洋に開かれた窓」と呼ばれる新首都へと発展していく。

 また軍事面では、前述したように海軍を創設したほか、ロシア全土にわたって民衆から新兵を強制的に徴集。

 貴族にも軍役を生涯の義務として課し、大規模な軍隊を創設した。

 強大な軍事力をもって、大国スウェーデンを打ち破り、念願だったバルト海への進出を実現させている。

西欧化のため「ヒゲ税」を課す

 一国のリーダーとして見事な手腕を見せたピョートルだが、改革がもたらすものは果実だけではない。

 なにしろ、ピョートルは「西欧ではヒゲが流行っていない」と、ヒゲ税を作ってまで、国民や貴族の髭を剃ろうともした。

 やりすぎた西欧化は、ロシアのナショナル・アイデンティティの喪失をもたらすことになる。

 ただ、失ったものと引き換えに、得たものも大きかったということだろう。

 ピョートルによる大胆な改革によって、国際的に大国の仲間入りを果たしたロシア。

 そんな得たものの大きさだけから、プーチンはピョートルの名を挙げるが、今のロシアは国際的にはむしろ孤立を深めるばかりである。

世界史を学習することの意味

 世界史を学び、他国の歴史を知ることは、国際感覚を身につけることにほかならない。

 ロシアはこれから、どこに行こうとしているのか。そんな国際情勢を理解するためにも、『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』を読み、世界史の流れと重要人物を押さえて、気になった人物を深掘りしてほしい。世界史の教養は役立つことだろう。

【参考文献】
土肥恒之『ピョートル大帝』(山川出版社)
土肥恒之『ピョートル大帝とその時代』(中央公論新社)
アンリ・トロワイヤ『大帝ピョートル』(工藤庸子訳・中公文庫)
田中陽兒、倉持俊一、和田春樹『ロシア史〈1〉9~17世紀(世界歴史大系)』(山川出版社)