全世界で700万人に読まれたロングセラーシリーズの『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉敏生訳)がダイヤモンド社から翻訳出版され、好評を博している。本村凌二氏(東京大学名誉教授)からも「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」と絶賛されている。その人気の理由は、カラフルで可愛いイラストで世界史の流れがつかめること。それに加えて、世界史のキーパーソンがきちんと押さえられていることも、大きな特徴となる。
そこで本書で登場する歴史人物のなかから、とりわけユニークな存在をピックアップ。今回はハプスブルク家が生み出したオーストリアの女帝、マリア・テレジアを取り上げる。マリー・アントワネットの母としても知られるマリア・テレジアは、どんなリーダーぶりを発揮していたのか著述家・偉人研究家の真山知幸氏に寄稿していただいた。

【マリー・アントワネットの母】ハプスブルク家の“女帝”マリア・テレジアは何がすごかったのか?Photo: Adobe Stock

誕生が歓迎されなかったワケ

 マリア・テレジアは1717年、神聖ローマ帝国カール6世の長女として、ウィーンの王宮で生まれる。

 だが、のちにオーストリアの女帝として名を馳せるマリア・テレジアの誕生は、周囲からそれほど歓迎されなかった。なぜならば、前年に長男のレオポルトが生まれたものの、半年で死去。跡継ぎを失ってしまっていた。

 そんななか、男の子ではなく女の子が生まれたため、マリア・テレジアの誕生は、一大慶事としては見なされなかったのである。

後を継いだらすぐに戦争

 結局、マリア・テレジアのあとも男児は生まれなかった。

 そのため、長女のマリア・テレジアが、広大なハプスブルク家領を受け継ぐことになる。あらかじめ、カール6世は女性の継承を諸外国に認めさせていた。

 ところが、いざ1740年にカール6世が崩御すると、マリア・テレジアが後継者になることに「待った」がかかる。バイエルンやザクセンの選帝侯が、神聖ローマ皇帝の継承権を主張したのだ。

 また、プロイセン王フリードリヒ2世は、シュレジエンを要求。今がチャンスとばかりに、軍事侵攻をスタートさせた。

 各国の利害関係もからみあいながら、オーストリア継承戦争に突入していく。

経験がなくても堂々と振舞う

 このとき、マリア・テレジアはまだ23歳。国政の経験も、軍事の経験もなかった。

 それでも、自分が諦めてしまったら、この国は滅んでしまう。しっかりしなければならないと、慌てふためく側近たちに、マリア・テレジアは力強くこう呼びかけている。

 「どうしてそのような顔をしているのです? さあ、これ以上、哀れな女王を失望させないで。助言しサポートをしてください」

相手の懐にあえて飛び込んだ

 だが、1741年にはプロイセンとフランスが軍事同盟を結び、さらに状況は悪化。財政面でも軍事面でも劣るオーストリアが、立ち向かう術はないかにみえた。

 また、悪い局面では悲観論ばかりが唱えられがちだ。オーストリア政府の首脳たちが恐れたのは、ハンガリー貴族たちが立ち上がることだ。

 ハンガリー王は代々ハプスブルク家が兼任してきたが、その支配に対して、ハンガリーの貴族たちが何度となく反乱を起こしてきたという歴史がある。

 周囲はみな何とかハンガリーを刺激しないようにと考えたが、マリア・テレジアは違った。

 ハンガリーにわざわざ乗り込んで、女王としての戴冠式をやると宣言。呆気にとられる側近たちをよそに、実行に移している。

 そして、マリア・テレジアは、あえてハンガリー議会に飛び込んでいき、支援を涙ながらに訴えたのである。

涙の演説

 無謀にも思えたが、若きリーダーの捨て身の行動が、事態を動かす。マリア・テレジアの訴えを聞くと、ハンガリーの貴族たちは「我らが血と命を捧げん!」と叫んで、それに応えたという。

 軍隊を提供し、財政のサポートをすることをハンガリーは約束。そのおかげで、オーストリアは、プロイセンとの戦いをかろうじて互角で乗り切ることができた。

 その結果、1748年にアーヘンの和約で講和。シュレジェンを失ったのは痛手だったが、家督の相続については認められ、マリア・テレジアは、オーストリア大公妃に即位。夫のフランツ1世が、神聖ローマ皇帝に即位することとなった。

 もちろん、実際に統治したのは、夫ではなく、女帝マリア・テレジアであることは言うまでもないだろう。

優秀な人材に改革を任せる

 いきなり戦争に巻き込まれて散々なマリア・テレジアだったが、早く困難にぶち当たったことで、自国の力不足を痛感できた。

 急いで改革を進めるべく、開明的な考えを持つ、ハウクヴィッツ伯フリードリヒ=ヴィルヘルムを新設の管理庁長官に任命。全権を委任している。

 ハウクヴィッツは、行政と財務の一本化を目指して内政改革に着手。官僚機構を整備して、中央政権化を進めた。その一方で、マリア・テレジアは前フランス大使のカウニッツを宰相に抜擢。外交はカウニッツに委ねている。

 そうして適材適所の人材配置を行うことで、マリア・テレジアは自分の経験不足なところをカバーしたのだ。

夫の死後

 マリア・テレジアは政略結婚が当たり前の時代に、フランツと恋愛結婚している。

 幼い頃から、9歳年上にあたる貴族のフランツを宮廷で目にしており、5歳で恋に落ち、19歳で結婚。初恋を実らせた。

 それだけに1765年、フランツが57歳で急死すると、マリア・テレジアは大きなショックを受ける。失意のなか、以降は終生、喪服を着続けたという。

 その一方で「自分がしっかりせねば」という思いはますます強くなる。優秀な官僚と協力しながら、マリア・テレジア自身も改革を推進。

 経済政策や教会政策に取り組んだほか、国の基幹産業である農業分野にも着目し、農民保護にも取り組んだ。

 自分がつらい状況にあっても、改革の手はゆるめないどころか、加速させたマリア・テレジア。その実行力で国民をけん引していった。

子どもを政略結婚に

 マリア・テレジアは16人もの子どもを産んだ。子が成長すると、周辺諸国の王家より妃を迎えたり、娘を嫁がせたりすることで、各国との関係を強化していく。

 特に、プロイセンと対抗するために、長く覇権を争ってきたブルボン家との関係を重視。長男ヨーゼフ、三男レオポルト、四男フェルディナント、六女マリア・アマーリア、十女のマリア・カロリーナの5人をいずれも、イタリアのブルボン家系のもとへと嫁がせている。

 さらに、11女のマリー・アントワネットは、フランス国王ルイ16世の王妃として迎え入れられている。

 重点政策では側近をうまく重用しつつ、マリア・テレジア自身は、自分にしかできない外交として、政略結婚を推し進めた。

ハプスブルク家の栄華をアピール

 政略結婚のためには、娘が望んだ恋愛を引き裂いたばかりか、問題のある相手だと知りながら結婚させたこともあった、マリア・テレジア。子供との関係は必ずしも良好ではなかった。

 それでもハプスブルク家の栄華を積極的にアピール。宮廷画家マイテンスなどによって、マリア・テレジアと夫、そして子供たちの仲睦まじい様子が、いくつもの家族絵で描かれている。

 また、前述したハンガリー貴族への演説も絵画になっている。そこには乳飲み子のヨーゼフを抱えながら、ハンガリー貴族たちと対峙するマリア・テレジアの姿が描かれている。

 そのほか、幼いモーツアルトの音楽会を見守るマリア・テレジアとその家族を描いた絵や、街ですれ違った貧しい女性の赤子に母乳を飲ませるマリア・テレジア(!)を描写した絵もある。

マリア・テレジアの名言

 勇ましい女帝であり、かつ、多くの子を持つ母であることを、誇示しながら、国をまとめようとしたマリア・テレジア。こんな彼女らしい名言を残している。

 「私は最後の日にいたるまで、誰よりも慈悲深い女王であり、かならず正義を守る国母でありたい」

 1780年11月、マリア・テレジアは散歩のあとに突如、高熱を発する。そのまま回復することなく、63歳で死去した。

ヨーゼフ2世のさらなる改革

 その後は、息子のヨーゼフ2世による単独統治の時代へと入る。ヨーゼフ2世は、母の意思を継いで、より大胆な農民開放に取り組んだ。また、宗教においては寛容令を発布して信教の自由を拡大させている。

 ずいぶんと改革に意欲的だが、それも無理はない。ヨーゼフ2世は24歳で神聖ローマ皇帝の座に就きながらも、15年にもわたって、母のマリア・テレジアに実権を握られていたのだ。自分が主体となって、政策を進められることの喜びに、ヨーゼフ2世は満たされていたことだろう。

 偉大な女帝を超えるべく、ヨーゼフ2世は啓蒙主義的改革を推進。やや強引に新しい時代を切り拓いていくのだった。

世界史を学習することの意味

 世界史を学習することは、名を残した先人たちの生き様に触れることでもある。

 とりわけ、マリア・テレジアのように、世界に影響を与えたユニークなリーダーたちが、どんな苦労をして、どのようなマネジメントを行ったのかは、多くのビジネスパーソンに参考になったり、あるいは、反面教師になったりするはずだ。

 混迷を迎える今だからこそ、世界史を通じて、先人たちの経験を教養として知っておくことをおススメする。『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』を読むことは、きっと思わぬ場面で突破口を見つけるヒントになることだろう。

【参考文献】
アンドリュー・ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち—帝国の体現者』(瀬原義生訳、文理閣)
江村洋『マリア・テレジアとその時代』(東京書籍)
稲野強『マリア・テレジアとヨーゼフ2世—ハプスブルク、栄光の立役者』(山川出版)
丹後杏一『ハプスブルク帝国の近代化とヨーゼフ主義』(多賀出版)