森保ジャパンは今回、アジア最終予選や親善試合を通じて練り上げた「4-3-3」のシステムでは分が悪いとなると、新システムの「5-4-1」へとすぐに切り替えた。
ほぼ「ぶっつけ本番」の「5-4-1」は、準備期間が短かったにもかかわらず機能し、強豪国の選手たちを苦しめた。その要因は、森保監督の判断が優れていただけでなく、選手たちが状況に合わせて、自らの立ち位置や動き方を柔軟に変えられるスキルを身に付けていたからではないだろうか。
監督が細かな約束事を1から10まで作ったり、動き方を手取り足取り説明したりする必要のない、ある程度の「自由」が許された組織でも、選手たちはW杯の舞台で力を発揮できるようになったといえる。
4年前の日本代表の活躍は、ハリル氏の退任を巡る緊張感から生まれた「偶然」だったかもしれない。しかし、選手層が厚くなり、格段に上がった経験値をもとに戦略を構築した今回の活躍は「必然」といえるのだ。
海外の教育では意外にも
「型にはめる」ことが重視される
私は大学教授の視点からW杯での日本代表の躍進を見て、日本の若者の育成に重要なことが含まれていると考えた。
それは、大学などの高等教育や企業における若手社員の育成などの場で、若者たちに「自由」を与えることの重要性である。
私は英国に7年間留学した経験から、欧米の大学教育のいろんな面を見てきた。第88回の『「入学は簡単だが卒業は難しい」大学教育の欧米スタイル導入はなぜ失敗したか』でも論じたが、欧米と日本の教育は本質的に異なっており、必ずしも欧米流が日本に適しているとは限らない。
日本の大学には、欧米に寄せた教育を取り入れたところもあるが、その結果「自ら新しい課題を見つけ出して、前例のない課題を自らの力で解こうとする機会」を学生から奪うことになったと私は考えている。
意外かもしれないが、欧米の教育は、個性的な学生たちに「型」を教えることに主眼を置いている。大学での「論文の書き方」や「少人数クラスでの議論の仕方」は厳格に定められており、自由度や個性はあまり尊重されない。
その教育スタイルは、今の日本で重視されている「考える力を伸ばす指導」ではなく、シンプルな「躾(しつけ)」に近いものだといえる。
欧米の大学には、自国の学生だけでなく、アフリカ、アジア、中東、南米など世界中から留学生が集まってきている。これが、そろいもそろって強烈に「自己主張」をする人たちだ。
彼らは、学部生でも大学院生でも、大学に入る前から「世界の誰も考えなかった大発見を、自分は既に考えている」みたいに思いこんでいる人も少なくない。日本人からすればにわかに信じ難い話だが、これは決して大げさではない。
要するに、欧米の大学教育が目指しているのは、個性的で異様にプライドの高く、放っておけば空想の世界でノーベル賞でも取ったような気分の学生に、なんとかして学問や社会のマナーを教え込む(躾ける)ことなのだ。