Apple Books Store 2022年「今年のベストブック(ノンフィクション部門)」受賞作! 猫はなぜ高いところから落ちても足から着地できるのか? 科学者は何百年も昔から、猫の宙返りに心惹かれ、物理、光学、数学、神経科学、ロボティクスなどのアプローチからその驚くべき謎を探究してきた。「ネコひねり問題」を解き明かすとともに、猫をめぐる科学者たちの真摯かつ愉快な研究エピソードの数々を紹介する『「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた』。
養老孟司氏(解剖学者)「猫にまつわる挿話もとても面白い。苦手な人でも物理を勉強したくなるだろう。」、円城塔氏(作家)「夏目漱石がもし本書を読んでいたならば、『吾輩は猫である』作中の水島寒月は、「首縊りの力学」にならべて「ネコひねり問題」を講じただろう。」、吉川浩満氏(文筆家)「猫の宙返りから科学史が見える! こんな本ほかにある?」と絶賛された、本書の内容の一部を紹介します。(初出:2022年6月9日)

【全米で話題】ネコがマンションなどの高いところから落ちても助かる「驚きの理由」とは?【書籍オンライン編集部セレクション】Photo: Adobe Stock

高層ビルとネコ

 オフィスビルもマンションも含め次々に高い建物が建てられるようになり、猫もどんどん上階の部屋に棲むようになった。そして当然、高いところから落ちるようになってしまう。ホーム・インシュアランス・ビルの建築業者も、この建物を建てたことで猫の新たな病態が生まれるなんて思ってもいなかったはずだ。その病態とは「高所落下症候群」である。

 その論文が発表されたのは一九七六年のことで、初の高層ビルが建てられてからこの症候群が認識されるまでに一〇〇年近くもかかったことになる。

 初めてこのテーマを取り上げたロビンソンの論文は、この症候群に人々の目を向けさせて獣医にも知ってもらおうという意図で書かれた。ロビンソンは高所落下症候群の典型的な外傷として、鼻出血・硬口蓋裂傷・気胸の三つを挙げている。

 鼻出血とは鼻血のことを指す専門用語、気胸とは肺がしぼんでしまうことである。硬口蓋とは口腔の上側にある骨の板で、口腔と鼻腔を分け隔てている。猫が高いところから落ちると、この硬口蓋が中央で縦に割れてしまうことが多い。この三種類のおもな外傷に加え、歯やほかの骨が折れることもある。

落ちても死ななかった高さの記録

 その一方でロビンソンが述べているとおり、猫は驚くような高さから落ちても死なないことが多い。

 猫が高いところから落ちても生き延びられるのは、まさに驚異と言うほかない。落ちても死ななかった高さの記録は次のとおり。固い地面(コンクリート、アスファルト、土、自動車の屋根)に落ちた場合では一八階分、植え込みの上に落ちた場合では二〇階分、ひさしや天幕の上に落ちた場合では二八階分である。

 しかし物理学の知識を少々持ち出してくれば分かるとおり、少なくとも人間の場合と比べて猫が高いところから落ちても死なないというのは、それほど驚くことではない。

頭を上にして着地する

 何よりも、猫は人間と違って立ち直り反射の能力を備えていて、たいていは頭を上にして着地する。それは生き延びる上できわめて重要だ。

 また、猫の身体が比較的小さいことも重要な役割を果たしている。「落ちるから死ぬんじゃなくて、最後に突然止まるから死ぬんだ」ということわざは正しいのだ。墜落による怪我は、身体が突然不均一に減速することで起こる。

 たとえば足から先に着地すると、足の運動はその瞬間に止まるが、その上の身体はまだ運動しているため、上から降りてきた上半身の慣性力が下半身にのしかかる。そして身体が重いほど、自分の体重によって起こる怪我はひどくなる。猫が人間よりも有利なのは、単純に身体が軽いからだ。

木から落ちるときに必要な能力

 しかも体重の軽い猫の終端速度(重力と空気抵抗が釣り合ったときの落下速度)は時速およそ一〇〇キロメートルで、人間の半分ほどである。

 ロビンソンのこの論文は、高所落下症候群という問題自体は明らかにしたものの、猫の生存率やそれと落下した高さとの相関性に関する定量的なデータは示していない。猫は木の上で暮らして狩りをして身を隠すよう進化し、木から落ちるのに適応してきた。

 そこで次のように予想できるかもしれない。猫は二階くらいの高さから落ちてもほとんど怪我をせずに済むような能力を備えているが、それよりも高くなるとふだん経験する範囲を外れてしまうため、少なくとも終端速度に達する高さまでは、高さとともに怪我の頻度も上がっていくだろうと。

墜落した高さと怪我の関係

 ニューヨーク市にある動物医療センター外科部門のウェイン・ホイットニー医師とシェリル・メーラフ医師は([1])、一九八四年の五ヵ月間にセンターが扱った高所落下症候群一三二例を分析し、うち九〇パーセントもの猫が生き延びたことを明らかにした。

 さらに、怪我をした身体の箇所の平均は落ちた高さにつれて増えていくが、それは八階以下に限られることが分かった。不思議なことに、八階より上になると、外傷、とくに骨折の箇所の平均は大幅に減少するのだ。

 九階以上からの落下ではいずれの種類の外傷も大幅に少なくなっている。驚くなかれ、ちょっとした高さから落ちた猫よりもかなりの高さから落ちた猫のほうが一般的に怪我が少ないのだ。

全米で話題になる

 この研究結果はアメリカじゅうに報じられ、数年のあいだに数えきれないほど取り上げられた。『ロサンゼルス・タイムズ』紙は『小さな猫の足で着地する』というタイトルの記事で伝えた。二年後には『ニューヨーク・タイムズ』紙が『猫のように着地する―それは事実だ』というタイトルの記事で取り上げた([2])。

 直感に反していて興味深い研究結果だが、はたして正しいのだろうか? 制御された科学実験と称して屋根からわざと猫を落とすような人は幸いにもいないので、高所落下症候群に関する研究は動物病院で扱った症例に頼るほかなく、思いがけない形でデータが偏っている可能性がないとは言えない。

 たとえば、かなりの高さから落ちて何ヵ所も怪我をした猫はすぐに死んでしまうと仮定してみよう。そのような猫の死体が動物病院に運び込まれることはないだろうから、ホイットニーとメーラフのデータはもっと怪我の箇所が少なくて軽症の猫に偏ってしまうことになる。

 奇妙な結果が導き出された原因はほかにもあるだろうが、この可能性をあっさり無視することはできない。

ある疑問

 同様の研究はしばらくのあいだおこなわれなかった。猫の墜落事故そのものはたびたび起こっているが、高層ビルが建ち並んでいて高層階におけるデータを容易に検証できるような場所はそう多くない。高所落下症候群に関する研究がさらに二件、ギリシャとイスラエルでおこなわれたが、八階以下から墜落した猫しか扱っていない([3])。

 二〇〇四年になってようやく、クロアチアの首都ザグレブの獣医たちが協力してデータを集め、かなりの高さからの墜落に関するホイットニーとメーラフの研究結果を検証できるようになった。一一九の症例を調べたところ、骨折の割合は確かに高層階ほど下がるようだが、口蓋裂傷は逆に増えるらしいことが分かった([4])。

 このデータに著しい偏りがないと仮定すると、当然次のような疑問が浮かんでくる。なぜ八階より高いところから落ちた猫のほうが、少なくとも一部のタイプの怪我の割合が低いのか?

 ホイットニーとメーラフは、怪我の箇所が少なくなりはじめる高さと終端速度に達する高さとがおおむね一致していることに注目して、次のような仮説を立てている。

ムササビのように

 終端速度に達する直後の約七階の高さまでは、予想どおり、我々の扱った猫の外傷の割合は高さと落下速度に比例している。しかし驚くことに、七階より高くなると骨折の割合は低下する。この結果を説明するために次のような仮説を立てた。

 猫は終端速度に達するまでは、加速を感じて反射的に肢を下に伸ばすため、怪我をしやすくなる。しかし終端速度に達してしまうと、加速によって前庭系が刺激されることがなくなるため、猫は緊張をほどいてムササビのように肢をもっと水平に向ける。その水平姿勢のおかげで衝撃が身体全体に均等に分配されるのだ。

 現在のところこの仮説は受け入れられているが、その物理に関する記述には少々誤解が見られる。実際には、自由落下している最中の猫は加速していても加速を「感じる」ことはなく、完全に無重量状態にある。

 猫は無重量状態を不快に感じるはずで、肢を下に伸ばすのはそのためだ。しかし終端速度に達すると、通常の重さを感じて緊張をほどき、衝突に備えて肢を水平に伸ばすのだろう。

驚くような高さから落ちた猫たち

 しかし緊張をほどくメリットはそれだけではないはずだ。猫が緊張をほどくと、背中が丸まって腹の下に空気を抱え込む形になり、パラシュートに近い効果が生じて終端速度が下がるだろう。ホイットニーとメーラフが論じたとおり、猫は「ムササビのように」振る舞うのかもしれない。

 これはただのいいかげんなたとえではない。二〇一二年、ボストンに棲むシュガーという名前の猫が一九階の高さから落ちても軽症で済み、命にも別状はなかった([5])。

 目撃情報によると、おもしろいことにこの猫は、まさにムササビが飛膜を使って滑空するのと同じように、腕の下に垂れ下がった皮膚を使って着地場所を調節したらしいのだ。

 四方をレンガとコンクリートに囲まれたマルチ(根覆いのための藁や落ち葉)の山に着地しており、信じられないほど幸運だったのでなければ、垂れ下がった皮膚を使って落下経路をわずかにコントロールしたとしか思えない。

 たった一つの事例から猫が滑空するなどと結論づけることはできないが、興味深い話ではある。

 いずれにせよ、猫の高所落下症候群の平均生存率は驚くほど高い。ホイットニーとメーラフの研究では約九〇パーセントという生存率がはじき出されており、ほとんどの論文でもそれと合致する結果が得られている。墜落した高さも目を惹く。

32階の高さから…!

 ホイットニーとメーラフの論文に記されている中でもっとも高い記録を出したのは、三二階の高さからコンクリートの地面に落ちたサブリナという名前の猫で、軽度の気胸と歯が一本欠けただけで済んだ。

 二〇一五年には香港のジョンミという猫が二六階の高さから墜落したが、テントの上に落ちて布を突き破ったことが幸いして怪我一つしなかった。飼い主によると、ジョンミは落ちた後も平然としていたという。

(本原稿は、グレゴリー・J・グバー著『「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた』〈水谷淳訳〉を抜粋・編集したものです)

【参考文献】
[1]Whitney and Mehlhaff, “High-Rise Syndrome in Cats.”
[2]A. Parachini, “They Land on Little Cat Feet,” Los Angeles Times, December 28, 1987;
“On Landing Like a Cat: It Is a Fact,” New York Times, August 22, 1989.
[3]Papazoglou et al., “High-Rise Syndrome in Cats : 207 cases(1988-1998)”; Merbl et al., “Epidemiological, Clinical and Hematological Findings in Feline High Rise Syndrome in Israel: A Retrospective Case-Controlled Study of 107 Cats.”
[4]Vnuk et al., “Feline High-Rise Syndrome: 119 Cases(1998-2001).”
[5]Skarda, “Cat Survives 19-Story Fall by Gliding Like a Flying Squirrel.”