単純に見えて究極の防御力
家康の二条城
徳川家康は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに勝利した。翌1601年に家康は天下人として京都における拠点を確保するために、二条城の普請を諸大名に命じた。1602(慶長7)年には天守など建築工事まで進み、翌1603年に完成して家康が入城した。
この家康の二条城は現在の二条城と異なる点が多く、城の北西隅に奈良県の大和郡山城から曳屋した天守がそびえても、石垣と堀を四角くめぐらせただけの単純なかたちだった。つまり現在の二条城が本丸と二の丸によって階層的なつくりになっていたのに対し、家康の二条城はそもそも本丸しかなかった。だから家康の二条城は京都で徳川の権威を示すのが目的で、守りを重視した本格的な城ではなかったと、これまで説明されてきた。しかし家康は弱々しい二条城を、徳川の城として本当に京都に築いたのだろうか?
そこで「洛中洛外図」など家康の二条城を描いた絵画資料を、城郭考古学の見地から読み直すと、見逃してきた家康二条城のすごさが浮かび上がってくる。なんと家康の二条城は、南北360メートル、東西300メートルほどの石垣上のすべてに多聞櫓を建てまわし、北西隅の天守と連結した画期的な設計を実現していたのである。
城の多聞櫓は戦国期に松永久秀が居城にした奈良市の多聞城で生み出されたが、これほど大きな規模の本丸をすべて多聞櫓で囲んだのは、家康の二条城がはじめてだった。多聞櫓が城壁上を全周したので、防戦時の城兵の安全性を飛躍的に高められた。そして雨の日も屋根や壁があるから、城兵は鉄砲を自在に撃てた。さらに敵が城壁を越えて城内に乗り入るのも著しく難しくなった。
家康は単純に見えて、実は城壁と多聞櫓を組み合わせて究極の防御力を発揮した二条城を築いた。当時の武将は誰もが驚き、本当は怖い家康と痛感したに違いない。のちに主要な曲輪に多聞櫓を全周させる城の設計は、愛知県の名古屋城などが用いてさらに発展した。