『国富論』もまた超大作だった。世の中、何かがおかしい。どうも納得がいかない。そう人々が感じていたところに、「労働価値説」と「見えざる手」という画期的な論理を引っ下げて、経済社会の斬新な分析フレームが躍り出てきた。だから人々は、待ってましたとばかりに『国富論』に飛びついたのだろう。

『21世紀の資本』についても、同様だったと思う。格差と貧困。富の偏在。巨大資本のあまりにも圧倒的な巨大さ。これらのことに人々が不可思議さを覚え、恐れを感じ、憤懣(ふんまん)を募らせている。この時代状況に、『21世紀の資本』の主張と提言が大いに響いた。そうそう。我々はこういうことを言ってくれる本を待っていたのだと。

“主義なき資本”の時代に突入している

 ところで、ピケティ本について筆者が最も評価しているのが、『21世紀の資本』というタイトルである。なぜなら筆者は、今は“主義なき資本”の時代だと考えているからだ。

 20世紀最後の10年から始まったグローバル化の中で、ヒトもモノもカネも従来にはなかったスケールで国境を越えるようになった。中でも、凄(すさ)まじい規模と速度で国境を越えるようになったのが「カネ」、すなわち「資本」である。

 資本主義経済というもののカラクリをカール・マルクスが『資本論』で見抜いた頃、資本はまだ、今日のような動き方はしてはいなかった。資本主義的生産体制というものは、国民国家、あるいは国民経済の仕組みが基本的に堅固な中で成り立っていた。

 新型コロナウイルスによるパンデミックやロシアのウクライナ侵攻によって、グローバル化の流れが逆流し始めたかのように見られる面はある。とはいえ、『資本論』が書かれた時代の枠組みがそのまま戻ってくるとは考え難い。

 だからこそ、資本主義の危機が叫ばれたり、従来とは異なる資本主義の有り方を模索したりする論議が、あちこちで盛行するようになっている。

 グローバル化がいまだかつてなく活発化する中で、今日の資本は、資本主義の枠組みと袂を分かってしまった。つまり、資本の“主義なき資本化”である。