我々は「労苦」にふさわしい報酬を得ているか?

 働く人々がその「労苦と手間」にふさわしい報酬、すなわち高賃金を得ることは、大いに正当性があると思われる。ところが、『国富論』刊行当時においてはそうではなかったのである。

 高賃金論にことのほか強く異を唱えたのが、重商主義者たちだった。

 彼らは、本質的に怠け者である労働者たちをしっかり働かせるためには、賃金は低くなければダメだと考えていた。また、労働者の所得が増えれば、彼らは贅沢品にカネを無駄使いする。すると贅沢品の輸入が増えて、貿易収支が悪化する。高賃金は生産コストを高めて、輸出品の国際競争力を低下させる。これまた貿易収支悪化原因だ。貿易による金銀財宝の確保を至上命題とした重商主義者たちにとって、高賃金は、あらゆる意味で天敵だったのである。

 こんな状況だったからこそ、スミス先生は高賃金論を主張したのである。高賃金にすれば労働者は高賃金を喜び、一段の高賃金化を目指してさらに懸命に働く。すると労働生産性は上がり、国際競争力は低下するどころか、強化されますよ。スミス先生はそう主張した。労働観を前近代から近代へと導くことが、スミス流高賃金論に込められた先生の思いだったと言えるだろう。

 少なくとも日本に関する限り、現状は、スミス先生の高賃金論に適っていない。かれこれ30年間にわたって賃金低迷状態が続いている。この状態は、スミス先生が敵対した重商主義者たちをさぞや喜ばせることだろう。日本の賃金低迷は、21世紀の資本による、21世紀の重商主義の表れだと言えるかもしれない。