マルクス『資本論』の枠組みは通用するか

 こうなると、何が起こるか。それは資本の「野生化」だ。筆者はそう考えている。

 自由奔放に、勝手気ままに国境を越えて動く資本に対して、資本主義の枠組みは制御力を失った。野生化した資本の狂暴性を抑え込めるものがなくなっているのである。

 今日の資本は、『資本論』が執筆された時のようには動いていない。ただし、労働に対する搾取(さくしゅ)の基本原理が崩れたわけではない。『資本論』の中でマルクス先生が、当時の工場現場の実態を描出し、そこで行われている「剰余価値創出」のカラクリを解明してくれる時、そこで語られていることは、まるで今日の労働現場に関するルポルタージュのようである。

 だが、野生化した今日の資本は、当時の工場現場とは比べるべくもなく多様で広範な職場で、当時とは比べるべくもないあの手この手で、人々から余剰価値を吸い取っている。

 こうなってくると、資本と対峙する関係にある労働についても、その21世紀的有り方を追求する研究や分析が展開される必要があるのではないか。つまり、「21世紀の資本」、その生態に焦点を当てた画期的著作が書かれている以上、それと対をなす姉妹編として、「21世紀の労働」が書かれるべきだと考えられるのである。

アダム・スミスは労働をどうとらえていたか

 ここで経済学の生みの親、アダム・スミス先生の労働観を見てみよう。この人の労働観はなかなか厄介だ。なぜなら、そこには大いなる二面性があるからだ。スミス先生における労働観の二面性は、一方で「労働犠牲説」の観点を打ち出しながら、その一方で、「労働こそ、全ての商品の真の価値の尺度だ」と言っているところにある。

『国富論』の中でスミス先生が労働を語るに当たって、“toil and trouble”(労苦と手間)という表現を使っていることは、よく知られている。この言い方からすれば、労働を願わくは避けるべき苦役だと見なしていたように思われる。しかも先生は、労働者が一定量の労働に携わることは、それに見合って、自分の自由と安楽と幸福を犠牲にすることを意味しているとも言っている。これが労働犠牲説の労働犠牲説と言われるゆえんだ。

 ところが、一方で先生は、「労働価値説」の創始者だ。この論理の下に、当時の重商主義者たちの金銀財宝至上主義を厳しく糾弾したのである。

 先生は、労働は苦役だと主張して労働を毛嫌いしているようでありながら、それに携わる者たちには高い賃金が払われるべきだと主張した。

 それが、スミス先生の「高賃金論」である。