家康、信長、秀吉を
企業経営者に例えると
三河人の堅実さにどこか似た雰囲気の企業が、トヨタとその系列企業である。かたくなに、日本的経営を続けているのである。
それも当然、なにしろ、松平家が出てきた加茂郡松平郷は、現在は豊田市に合併されているのである。
日本の大企業、特に重化学工業のメーカーなどの多くは、明治維新後に殿様などが出資して、渋沢栄一とか五代友厚のような下級ではあるが武士階級の人々が中心になって誕生した。それゆえ、組織はかつての藩のように上下関係がはっきりしていて、論語から社訓を創ったりしている。これらの企業が藩に似ているのも、当然なのだ。
徳川家康の歩みは、今川という財閥的な企業グループのさほど有力でない会社の御曹司が、織田という別の企業グループに提携先を代えたのち、地道に努力して企業グループ内の最大企業になったといったところか。
今川から織田に乗り換えたというところを除くと、ぴったりしたケースがなく比喩が難しいのだが、徳川家康と家臣団の歩みは、日産コンツェルンのなかで小平浪平らが育てた日立製作所や川又克二らが発展させた日産自動車とか、三井グループのなかで土光敏夫が築き上げた東芝のようなものだ。
それに対して、尾張出身の殿様のところは、もう少し剛毅だ。
織田信長は、もともと名門の出身で、親の代にはそこそこ地元有力企業になっていたのを、一気に全国有数の大企業に成長させたみたいなものだ。これは、たとえば、任天堂の山内溥とかベネッセの福武總一郎、西武グループの堤兄弟などの成長過程に似ている。
豊臣秀吉は、急成長企業の従業員だったが、頭角を現してグループのトップになって創業家を上回る存在になったような人物だ。セブン&アイ・ホールディングスにおける全盛期の鈴木敏文みたいな出世をしたが、しょせんはサラリーマン出身だったがゆえに豊臣の天下はもろかった。このあたりの比較は拙著『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)で詳しく論じている。
いずれにせよ、三河でも尾張でも、江戸時代の武士は、良くも悪くも現実主義的な東海地方の人々だった。歴史小説に出てくるような、勇ましく、格好良く「武士道」に生きるサムライは、武士自身にとっても庶民にとっても「武士はかくあるべし」という理想である。現実の江戸時代の武士はもっとけちくさいもので、精神主義で花と散るような美学とは無縁だった。