非営利団体に属する個人事業主の集合体である彼らにあって、あえて積極的な女性登用をするという総意が形成できなかったのはここに理由がある。簡単に言えば、子供を産まない男性側の理解が進まなかったのだ。この点については当時、オーストリア国内での批判も相当あり、多数の政治家からも是正の声があがった。

 しかし、これは何もウィーン・フィルに限ったことではない。女性の就業と子を持つことに対する現場の理解は必ずしも浸透していない。一非営利団体の女性登用が遅れたのも、その歴史や社会的背景の中にあって理解できないわけではない。

 比較的早い段階から働く女性への権利を保障したベルリン・フィルでさえ、カラヤンが熱心に働きかけた女性クラリネット奏者の採用が叶わなかった騒動などを経て、女性奏者が正式に入団したのは1982年のことだ。

編集部注:カラヤンとは、かつてウィーン・フィルの指揮者をつとめた世界的大指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン。

 ヘルスベルクは先の著書の中で、「男性跋扈の構造が、ウィーン・フィルの伝統的楽器使用と同様に、その重要な構成要素となっている」として、これまでのウィーン・フィルの音楽と歴史が男性のみで培われてきたことを擁護し、「女性を採用することによって、オーケストラの名声に傷がつくのではないかという多分の怖れ、未知な要素への不安が潜む」と正直に吐露している。

 しかし現代は、その懸念こそが逆にマイナス評価として作用する時代である。女性の妊娠・出産・育児の権利と共に、男性の父親としての権利の保障も同様に尊重されるべきであり、国の制度が整備されているならばなおのこと、リーダーには現場の意識改革の推進が求められる。また、外圧の影響も大きかった。

 当時アメリカはこうした動きに先んじており、カーネギーホールはウィーン・フィルに対して、1998年までに女性奏者がいなければ舞台に立たせないとする通牒を突きつけている。多様性に理解を示すことが時代に要求される正しい在り方であると理解したウィーン・フィルもまた、ヘルスベルクを筆頭に、1990年代後半から変わり始めている。