反乱側には、瀬名たち奪回の立役者で、のちに家康の知恵袋として活躍する本多正信までいた。ドラマでは織田信長から家康の伯父・水野信元が派遣され、言い分を受け入れた振りをして和平を結び、組織を解体してから締め上げろという織田信長からのアドバイスを受け、その通りにするというストーリーだった。
しばしば、浄土真宗を鎌倉新仏教というが、実際に大教団に発展したのは、戦国時代のことで、親鸞の子孫である蓮如が出て民衆の教化に成功してからだ。また、一向宗のことはあらためて取り上げることがあると思うが、同時期に京の町衆の間で広まったのが法華宗だ。極楽浄土へ行けることを楽しみにする一向宗は、貧しく楽しみもない農民に受けたが、信心することで現世で利益があるという法華宗は商工業者向きなのだ。
このふたつと、キリスト教がいわば戦国三大新興宗教だったといえる。信長・秀吉・家康という三人が出てこなかったら、日本はそのうちのどれかが支配する宗教国家になったかもしれないと思う。
さて、筆者はかつて『江戸三〇〇年「普通の武士」はこう生きた』という本を書いたことがある。江戸時代の中くらいの藩というと7万石くらいで、領地の人口も7万人だ。士族というのは明治になってできた概念だが、その人口の6%程度だったから4000人。4人家族を平均とすると、広い意味での武士は1000人ほどになる。
ただし、足軽とかさらにその下の武家奉公人である中間がその半分くらいで、彼らは袴をはくことは禁止されている。それより上位で10石以上の石高あたりからが、江戸時代に武士といわれていた身分だ(現代ではひっくるめて下級武士の中に入れるが)。さらに、武士は徒士(歩兵)と馬に乗れる騎兵に分けられた。
馬に乗れるのがどのあたりからかというと、50石以上が標準で、7万石の藩なら200人あまりといったあたり。さらに200石以上になると上級武士だ。そこで、ここでは天保時代(1840年頃)に生きた50石取りの中の下といったあたりの架空の平凡な武士を松本潤之介と名付けて、以下、本人が語る形で、その生活を描いてみよう。